私はサッカーが好きで、日本代表の試合があると、なるべくライブで見るようにしています。どうしてもライブで見ることができないときは、録画して後で見るのですが、その時、往々にして困ったことが起きます。ニュースや周りの人の会話で録画を見る前に試合の結果が分かってしまうことです。これほど、興ざめなことはありません。スポーツは筋書きのないドラマです。華麗なテクニック、スピード、パワー。一つひとつのプレイが見る者を魅了しますが、どうなるか結果が分からない中でプロセスをわくわくしながら見て、その先に勝敗があるから感動するのです。時には落胆もありますが。結果に至るプロセスにとても重みがあるのです。
今日は、マルコの福音書11章からメッセージします。11章には3つの出来事が出てきますが、それを結果だけを見るなら、単なる出来事で終わってしまいます。しかし、そこにあるつながりが分かるとマルコが意図したストーリーが見えてきます。マルコの福音書は、一つ一つの出来事がバラバラに見えて、実は綿密に計算されたつながり、プロセスをもっているのです。
聖書箇所:マルコの福音書 11:1-11
11:1 さて、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニアに来たとき、イエスはこう言って二人の弟子を遣わされた。
11:2 「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばが、つながれているのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。
11:3 もしだれかが、『なぜそんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします』と言いなさい。」
11:4 弟子たちは出かけて行き、表通りにある家の戸口に、子ろばがつながれているのを見つけたので、それをほどいた。
11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「子ろばをほどいたりして、どうするのか。」
11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりに話すと、彼らは許してくれた。
11:7 それで、子ろばをイエスのところに引いて行き、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
11:8 すると、多くの人たちが自分たちの上着を道に敷き、ほかの人たちは葉の付いた枝を野から切って来て敷いた。
11:9 そして、前を行く人たちも、後に続く人たちも叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。
11:10 祝福あれ、われらの父ダビデの、来たるべき国に。ホサナ、いと高き所に。」
11:11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。
1.メシアのエルサレム入場
直前の状況
今日の聖書箇所は、イエス様がエルサレムに入場される場面ですが、直前の状況を少し振り返ります。これまでにも公生涯で何度かエルサレムに来られましたが、私たちが受難週として知っている最後のエルサレム詣でです。イエス様はついに十字架にかかる時が来たことを悟られ、ガリラヤからエリコを通ってエルサレムへ上っていく道すがら、弟子たちに何度も、エルサレムに行ったら異邦人に引き渡され、辱しめを受け、殺されるが、3日目によみがえると教えられました。
これまで人々に福音を伝える中で何度も、祭司長たち、律法学者やパリサイ人らと論争し、彼らの不信仰を糾弾したことで彼らの怒りを買い、殺されそうになったこともありました。ですから、彼らの本拠地であるエルサレムに行くことを、弟子たちも危ぶんでいました。
ヨハネの福音書11:8、16
11:8弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」
11:16 そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
しかし、イエス様は毅然として、弟子たちの群れの先頭に立ってエルサレムに向かわれたのでした。
エルサレムを前に弟子たちや群衆の期待
途中のエリコで、盲人バルティマイを目が見えるように癒されると、彼はイエス様についていきました(10:52)。彼だけでなく、多くの群衆がイエス様の奇跡を体験し、目撃し、エルサレムに向かうイエス様に付き従っていきました。また、ベタニヤ村で、死んで4日経ったラザロをイエス様が生き返らせたことを目撃した群衆は自分たちが見たことを証しし続けたので、イエス様がエルサレムに来ると聞き、さらに多くの群衆がイエス様を出迎えたのでした。(ヨハネの福音書12:17-18)
イエス様がエルサレムに近づくと、群衆は神の国がすぐに現れると思っていた(ルカの福音書19:17)のでしょう、イエス様が通られる道に自分たちの上着を敷き、他の人たちは葉のついた枝を野から切ってきて敷きました。人々はイエス様を神の力によってイスラエルをローマの支配から解放し、再建してくれる王、メシアとして出迎えたのです。今ならVIPを迎える時のレッドカーペットです。
そしてオリーブ山を越え、下りに差し掛かると目の前に城壁に囲まれたエルサレムの神殿が目に入ってきました。 荘厳な神殿を目にした弟子たちは喜びのあまり神を賛美しだしました。(ルカの福音書19:37)
神の予知
人々がイエス様を王として迎えた時、イエス様はろばの子に乗っておられました。少し前の場面で、一行がエルサレムに近づき、オリーブ山の麓のべテパゲとベタニヤに来た時に、イエス様は二人の弟子を向こうの村に遣わして、子ろばを調達させました。そこからでは見えない向こうの村に行くと、入り口にまだ誰も乗ったことのない子ろばがつながれている、それを引いて来なさいというのです。そして村人に聞かれたら、こう説明しない、そうすれば村人は赦してくれますと言われました。まるでこれから起こることを映像で見ているかのように、預言者が幻を見るように、情景が見えているのでしょう、事細かに説明しています。そして、結果はそのとおりになりました。神の予知です。
この後の話ですが、エルサレムで過ぎ越しの食事をどこで用意しようかと弟子たちが尋ねたときにも、都にはいったら水瓶を運ぶ人に出会うからその人について行き、入った家の主人に聞けば、用意の整った2階の大広間を見せてくれると話し、二人の弟子を遣わしましたが、はたしてその通りとなりました。
また、ここに来るまでに、何度か弟子たちにエルサレムに行ったら、祭司長らに捕らえられ、異邦人に引き渡され、辱めを受け、むち打たれて殺される、しかし、3日後によみがえると話されましたが、その時も、その情景が分かっていたのでそしょう。すべてお見通しなのです。
メシアはろばの子に乗って
話を戻しますが、イエス様がエルサレムに入る時にはろばの子に乗って入られました。王様なら、馬か戦車に乗って入場します。しかし、イエス様はろばの子によって都に入場されました。預言者の書に書かれていたからです。
ゼカリヤ書9:9
「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って。」
ろばは、非常に憶病な動物で、知らない人を乗せることはあり得ないそうです。まして、まだ人を乗せたことのない子ろばはなおさらのことですが、その子ろばに乗ることで、イエス様が柔和なメシアであることを証ししています。
そして、人々は、メシアを迎える賛美、“ホサナ”を合唱します。イエス様の前を行く群衆がまず賛美します。
「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。」 (11:9)
すると、イエス様の後ろにいる群衆が、
「祝福あれ、われらの父ダビデの、来るべき国に。」 (11:10a)
と応え、また前を行く群衆が
「ホサナ、いと高きところに。」 (11:10b)
という具合に、輪唱してメシアをほめたたえつつ、行進していきました。
この賛美は、詩篇118:25-26を引用したものです。
詩篇118:25-26
「ああ【主】よ どうか救ってください。ああ【主】よ どうか栄えさせてください。
祝福あれ【主】の御名によって来られる方に。私たちは【主】の家からあなたがたを祝福する。」
“ホサナ”とは、本来は「お救い下さい」の意味でしたが、転じて賛美の叫びになった言葉です。群衆は、力のかぎり、声のかぎり、イエス様をほめたたえたのです。
詩篇118:26の「祝福あれ主の御名によって来られる方に。」は本来、神殿祭司が巡礼者を祝福することばでしたが、イエス様を認めない祭司たちに代わり、群衆がイエス様をほめたたえたのです。群衆は黙っていることができなかったのです。
旧約聖書の御言葉が現実に
イエス様がろばの子に乗ってエルサレムに入場されたこと、そして、群衆がイエス様を“ホサナ”とほめたたえて出迎えた一連のことを弟子たちは初め理解できなかったようです。
ヨハネ12:16
これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。
弟子たちはその時には意味が分からなかったのですが、イエス様の十字架、そして復活を目撃したことで、これら一連のことが旧約聖書に書かれていたメシアの預言が現実になったと悟ったのでした。
ルカの福音書では、イエス様ご自身が解説しています。
ルカ24:44
そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」
モーセの律法には、罪の赦しには贖い(いのちの犠牲)が必要であることが書かれていて(レビ記)、旧約時代には、人が罪を犯すたびに罪の無い動物の命が犠牲にされましたが、罪の無いキリストが十字架でご自身の命を捧げられたことで、すべての人の罪を償う完全な贖いが成就しました。
預言者たちの書には、メシアはベツレヘムで誕生することをはじめ、子ろばに乗った柔和な王として来られる(ゼカリヤ書)ことなど、様々なことが書かれていますが、これらのことは、イエス様によってことごとく現実となりました。
詩篇には、今回のようにメシアを迎え、賛美する民の様子がハレル詩篇として書かれていますが、これらもイエス様で実現しました。
2.いちじくの木への呪い
いちじくの木と初なりの実
エルサレムの宮に入られたイエス様は、その日すべてを見て回った後、宮を出てベタニヤに行かれました。翌日滞在先のベタニヤからべテパゲを通って宮に行く途中での出来事が11:12から書かれています。
マルコの福音書 11:12-14
11:11 こうしてイエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、すでに夕方になっていたので、十二人と一緒にベタニアに出て行かれた。
11:12 翌日、彼らがベタニアを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
11:13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、その木に何かあるかどうか見に行かれたが、そこに来てみると、葉のほかには何も見つからなかった。いちじくのなる季節ではなかったからである。
11:14 するとイエスは、その木に向かって言われた。「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように。」弟子たちはこれを聞いていた。
聖書にはイスラエルの民を象徴する木がいくつか出てきます。旧約聖書によく出てくるのがぶどうです。そして新約聖書、特に福音書ではぶどうといちじくが出てきます。さらに、ローマ人への手紙などではオリーブの木がイスラエルの民の象徴とされています。ここでは、いちじくです。
この時は過ぎ越しの祭りの時でしたので、春、4月頃のことです。イエス様は葉の茂ったいちじくの木が見えたので、実がないかと見に行かれましたが、実はありませんでした。いちじくのなる季節ではなかったとありますが、確かに、熟して食べごろになる季節ではありません。いちじくは初夏と秋の2回実を成らせますが、この時はまだ春なので、熟した実はありませんが、本来なら初なりの実がなっているはずなのです。いちじくは早春に芽が吹きますが、葉が茂る頃には葉の付け根に小さな実をつけます。その年の最初の実なので「初なりの実」と呼ばれます。
(いちじくの初なりの実)
イエス様はこの初なりの実を見にいかれたのです。この場所がべテパゲという村のあたりであったこともそのことを表しています。べテパゲと言う名前は、ヘブル語では“ベイト・パグー”。“ベイト”は「家」、“パグー”は、「いちじくの未熟な実」、「初なりの実」のこと。つまり、「初なりいちじくの家」という意味なのです。
前日、宮に入ってすべてを見て回ったイエス様は、宮がどのような状態かすでに分かっていました。本来、宮は神の家であり、祈りの家です。すべての民が唯一まことの神「主(ヤハウェ)」を礼拝する場所であり、動物を捧げて罪の贖いをするきよい場所です。しかし、この時の宮は、きよい場所どころか強盗の巣と化していました。ヘロデ大王が増築した宮は見た目は荘厳で、中は商売で活気のある場所になっていましたが、宮で本来なされる心からの賛美、礼拝、祈りはなく、主と交わることで育まれる霊的な実が一つもなかったのです。
イエス様の空腹
イエス様は空腹を覚えられて、このいちじくの木を見にいかれましたが、それは単に肉体の飢えという意味なのでしょうか。イエス様が宣教を始められる直前、荒野で40日間の断食をされました。その時サタンから空腹なら石をパンに変えてみろ、と誘惑を受けられました。イエス様は石をパンに変えることのできる方だからです。しかし、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでる一つひとつのことば(霊の糧)による」と誘惑に勝利されました。また、食事をされないイエス様を心配した弟子たちには、父なる神のみこころを行うこと、人々の魂を救うことがご自身の“糧”であるとも言われました。つまりこのいちじくを見られた時の空腹感は、人々が神に背を向け、御言葉から離れている状態を見て、霊的な空腹を覚えられたのではないでしょうか。初なりの実を成らせていなかったいちじくは霊の糧が無い状態を表していたのです。葉は茂っても(商売)、初なりの実(霊的な実、信仰の実)が一つもないのは、宮の霊的状態を象徴しているのです。
呪いの結果
この後イエス様は、「今後いつまでも、だれもおまえの実を食べることがないように」とこのいちじくの木を呪われます。そして、翌日このいちじくの木は枯れてしまいます。
マルコの福音書 11:20-21
11:20 さて、朝早く、彼らが通りがかりにいちじくの木を見ると、それは根元から枯れていた。
11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生、ご覧ください。あなたがのろわれた、いちじくの木が枯れています。」
いちじくの木は根元から枯れていました。植物は通常枝先から枯れていきますが、この時のいちじくは根元から枯れていました。一夜にして完全に枯れたのです。このことは、かつてガリラヤ湖で荒れ狂う雨・風をことばで静めたように、イエス様が言葉によって自然界すべてを支配される方であることを表しています。また、このことはやがて現実となる宮の破壊の予表ともなっています。
ルカの福音書19:41-44
19:41 エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは、この都のために泣いて、言われた。
19:42 「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。
19:43 やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」
このことは、この後約40年後に現実のものとなります。イスラエルはローマ帝国に反乱を起こしますが、将軍ティトス(後のローマ皇帝)によって、エルサレムはAD70年に完全に破壊されます。宮は焼かれ、石垣はすべて取り壊されます。数百万人が殺され、生き残った民は世界中に離散することになります。メシアを拒否した罪、神の訪れを知らなかった罪の結果です。
3.宮きよめ
異邦人の庭
いちじくの木を呪った後、イエス様はエルサレムの宮に入られます。
マルコの福音書 11:15-19
11:15 こうして彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。
11:16 また、だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった。
11:17 そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
11:18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。群衆がみなその教えに驚嘆していたため、彼らはイエスを恐れていたのである。
11:19 夕方になると、イエスと弟子たちは都の外に出て行った。
ここは宮の中の、異邦人の庭と呼ばれるところです。神殿の中心にあるのは至聖所と聖所ですが、イスラエルの民はそこに隣接するところで礼拝します。その更に外側にあるのが異邦人の庭と呼ばれるところです。
(エルサレム神殿の異邦人の庭)
当時ここは、大祭司はじめ祭司長らの宗教ビジネスの場になっていました。世界中から巡礼に来るイスラエルの民に対し、通貨の両替(ローマの硬貨は皇帝の像、つまり偶像が刻まれていたためにシェケル硬貨に両替)で高額な手数料をとり、宮への税金を取り、祭壇へささげるいけにえを外の数倍で無理やり買わせて暴利をむさぼっていました。正に強盗の所業です。
また、この異邦人の庭を商売人たちは通行路として、物資を運搬していたのです。現在でいえば、運搬車や人が行きかう市場のようなものにしていたのです。
異邦人の礼拝の回復
しかし、ここは本来、主を恐れる異邦人が主に礼拝を捧げるための場所です。賛美を捧げることもあるでしょうが、世の喧騒から離れて、心を主に向け、祈り、礼拝を捧げるきよい場所です。それをこともあろうに、祭司長らの利権に巣くう者たちは、あくどい商売の場にしていたのです。イエス様は、宮に入るなり、彼ら商売人たちを追い出し、商売道具をぶちまけ、商品を運ぶことを止めさせました。そして、騒然とする中、人々に教えて言われました。
マルコの福音書11:17
そして、人々に教えて言われた。「『わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではないか。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった。」
ただ、言われたのではありません。教えて言われたのです。イザヤ書を引用して、宮は祈りの家であって商売の場、強盗の巣ではないと人々に悔い改めを説いているのです。商売人たちを追い出し、商品を運ぶことを止めさせましたが、これは義憤に駆られた実力行使(宮きよめ)ですが、同時に、異邦人たちが礼拝できるようにと、礼拝の回復をも意図されています。イザヤ書の「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」は、神の宮が異邦人にとっても礼拝の場であることを示しています。
宮の本当の所有者
エルサレムは主がご自身の御名を置くと言われた唯一の場所(Ⅰ列王記8:29)です。そこに建つ宮は、かつて主がご臨在を現した、聖なる神の家です。その宮をイエス様はイザヤ書のことばを引用して『わたしの家』と言われました。イザヤ書の御言葉は“神の家”のことですが、ニュアンスとしては、“イエス様ご自身の家”という意味に取れます。宮を建てたのはイスラエルの民ですが、宮の本当の所有者は神である主であり、イエス様はその神の御子であるとの宣言なのです。イエス様が12才で初めて過ぎ越しの祭りでエルサレムに来た時に、家路につく両親たちからはぐれ、宮で発見されたことがありましたが、その時にも宮を『父の家』と言われました。(ルカの福音書2:49)
イエス様は、宮の本当の所有者として、宮の本来のあるべき姿である祈りの家にすべく、商売人たちを追い出したのです。
結び:神の御子の権威
今回はマルコの福音書11章の3つの出来事から、イエス様はどのような権威を持つお方なのか見てきました。最初のエルサレムへの入場では、群衆はイエス様を御国の王、メシアとして出迎えました。それまでの御業から王なるメシアであると人々は認めたのです。次のいちじくの木の呪いでは、ことばで根まで完全に枯らす、裁き主であることをみました。この呪いの言葉は後に、エルサレム神殿崩壊として現実のものとなりました。3つ目は宮きよめでした。強盗の巣と化した宮を本来の神の家にすべく商売人たちを追い出し、宮をきよめました。宮は父なる神の家であり、イエス様ご自身の家であると宣言されました。これは、イエス様が宮の真の所有者であり、神の御子であることを表しています。また、同時に宮きよめは異邦人の礼拝を回復させるためであり、宮はすべての民の祈りの家、礼拝の場所であるとの宣言でした。
今日、分かち合いたいのは、イエス様は、王の王であり、裁き主であり、神の御子であり、これらの権威を持っておられる方であるということ。そして、そのような方であるにもかかわらず、すべての民を贖うために、この後、自ら十字架にかかり、ご自身の命を捧げられたということなのです。神であるお方、すべての権威を持つお方が、へりくだって人となられ、十字架でいのちを捧げられたのです。
ピリピ人への手紙2:6-8
2:6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、
2:8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
今日の3つの出来事も十字架に至る重要なプロセスなのです。マルコの福音書の中心テーマは弟子の道です。イエス様がその行いによって、神の御子キリストであることをローマの信徒へ説明するためにマルコはこの福音書を書き記しました。それは、読んだ信徒がイエス様の弟子として、キリストに倣う歩みをするためでした。
私たち、イエス様に従う者、奉仕者の姿がここにあります。私たちはとかく自分の栄誉を求めがちです。しかし、イエス様はすべての権威を持つお方であるにもかかわらず、ご自分の栄誉を求めることはせず、ただ、神のみこころに従われました。
真の権威とは、持っている権力を振りかざすことではなく、権威があるにもかかわらず、かえってへりくだって仕えることを教えています。冒頭のろばの子に乗ってエルサレムに入場されたイエス様は、仕える者として来られたメシアの象徴でもあるのです。
今日の聖書箇所の直前、エルサレムへ向かう途中で、イエス様は弟子たちに語られていました。
マルコの福音書 10:43b-45
10:43あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。
10:44 あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。
10:45 人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
イエス様はこの御言葉のとおり、多くの人に仕え、十字架でご自分のいのちを捧げて、私たちの救いのために贖いを成し遂げて下さったのです。十字架は、イエス様が表わされた真の権威の象徴です。
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