異言とは何か、今もあるのか、現代のクリスチャンに必要なのかということについては、教会や教団によって理解が異なります。この記事では、五旬節の日に弟子たちに起こった出来事は何を表していたのか、弟子たちが異言を語った目的は何か、異言と福音宣教はどのように関係していたのかを考察します。そして現代のクリスチャンと異言との関わり方を考えてみます。
1.聖霊降臨とともに現れた「舌」とは何か
異言とは何かを知るために、弟子たちが最初に異言を語った状況を確認してみましょう。
使徒2:1~3
五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。
五旬節は7週の祭り、ペンテコステとも言います。イスラエル民族がモーセに率いられて出エジプトしてから50日目、シナイ山で律法が与えられたことを記念する日です。弟子たちに初めて異言が与えられたのは、イエス様がよみがえられてから50日目、この五旬節の日のことでした。
天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こりました。「風」はヘブライ語でルーアハと言い、「息」とも訳されます。御霊を表す言葉でもあり、聖霊は「ルーアハ・コドゥショー」です。天から激しい風が吹いて来たような響きが起こったとは、聖霊の力強い訪れを表しています。
すると「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまり」ました。弟子たちの上にとどまったのは「炎のような舌」です。ペンテコステを表す挿絵によく描かれているように、弟子たちの頭に「炎」がとどまったのではありません。「舌のようなものが炎のように分かれて現れ」と書かれた聖書もあるので、炎というよりは舌なのです。
英語の聖書では、「炎のように分かれたtonguesが現れ」と書かれています。英語のtongue(タング)にはいくつかの意味があります。
①舌 ②話しことば、言語 ③話し方、言葉遣い ④話す(能)力 ⑤異言 ⑥炎の先端
炎が燃えている時、先端で揺れている部分を英語で「tongue」といいます。ロウソクは一つのtongueしかありませんが、何かが燃えている時には、炎は先端がたくさんのtonguesに分かれています。
ペンテコステの日、激しい聖霊の訪れと同時に、「全体としては一つだが、炎のように先端がいくつにも分かれた舌」が現れ、分かれたその一つひとつが弟子たち一人ひとりにとどまりました。
すると弟子たちは聖霊に満たされ、「御霊が語らせるままに他国のいろいろなことば tongues」で話し始めました。Tongueには「話しことば、言語」という意味もあります。彼らは、自分の習ったこともない、理解することもできない外国語で話し始めました。それを日本語では「異言 tongue」とよびます。
五旬節の日、集まって祈っていた弟子たちに聖霊が吹いてきて、一人ひとりに分かれたtonguesの一つひとつがとどまると、彼らは聖霊に満たされ、それぞれが与えられたtongueで語り始めたのです。
2.「舌」がとどまったのは神のみわざを語るため
五旬節の日には主の前で集会を開くことが、律法で定められています。外国に住んでいた敬虔なユダヤ人たちは、過ぎ越しの祭りの前にエルサレムを訪れ、そのまま五旬節が終わるまで滞在しました。当時、離散先の国々から徒歩でエルサレムに移動するには多くの日数がかかったので、遠方に住む人々は2つの祭りの間に行ったり来たりせず、50日以上ずっとエルサレムにとどまっていました。
使徒2:5~12
さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国々から来て住んでいたが、この物音がしたため、大勢の人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、呆気にとられてしまった。
彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。
私たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、またメソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などに住む者、また滞在中のローマ人で、ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレタ人とアラビア人もいる。それなのに、あの人たちが、私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは。」
「それぞれ自分の国のことばで」「私たちそれぞれが生まれた国のことばで」「私たちのことばで」
これらの「ことば」には、英語聖書の多くで「tongues」が使われています。Tongueのようなものが分かれて現れ、弟子たちにとどまった結果、彼らは諸国・諸民族のtonguesで語り始めました。
弟子たち自身は、自分で何を語っているのか解らなかったかもしれませんが、外国語を話す人々は、弟子たちが異言で語るメッセージを理解しました。そして「私たちのことばで神の大きなみわざを語るのを聞くとは」と驚いたのです。
イザヤは、「まことに主は、もつれた舌で、外国のことばで、この民に語られる」と預言しました(イザヤ 28:11)。
弟子たちは、パルティア人、メディア人、エラム人、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントスとアジア、フリュギアとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビア地方などで使われている言語、また、ローマ人、クレタ人、アラビア人などの言語で、御霊が語らせるままに「神の大きなみわざ」を語っていました。
弟子たちがペンテコステの日に聖霊に満たされたのは、他国の言語で超自然的に神のみわざを語るためでした。異言は意味のない、でたらめな音の羅列ではありません。神の目的と聖霊の働きにより、「伝えるべき内容を明確に語るための手段」として与えられたのです。
3.「分かれた舌」で諸国民に語る理由
聖書には奇妙な幻が書かれていることがあります。例えば、黙示録5:6には、使徒ヨハネが「7つの角と7つの目を持つ、屠られたと見える子羊」を見たと書かれています。想像すると異様な姿に思えますが、「屠られたと見える子羊」だから、これはイエス様を指していると推測できます。そして7は完全数なので、「7つの角」はすべての権威・権力を表し、「7つの目」は全知であることを示していると思われます。幻は、見たものをそのまま文章で表現すると、奇妙で、読む人にとって理解し難いけれども、深い意味が込められていることがあります。
では、五旬節の日に起こった現象(幻)に秘められた意味、それが表していた本質とは何でしょうか?分かれたTonguesの意味については、創世記の出来事から理解することができます。
創世記11:1 さて、全地は一つの話しことば、一つの共通のことばであった。
創世の当初、人類の話しことばは一つだけ(one tongue)、すべての人が共通言語を話していました。たくさんの話しことばに分かれたのは、バベルの塔事件の後です。
神の御心は、人間が地に増え広がり、神の代理として被造物を正しく管理することでした。ところが、人が増えるにつれ、罪と悪が増し加わり、地には暴虐が満ち、もはや見逃すことができない程になりました。そこで神は、大洪水を起こして人類を一掃しようと計画されました。ノアは百年かけて方舟を作りながら人々に悔い改めを説きましたが、聞き入れる者はなく、結局ノアの家族以外の不信仰な人々は全滅させられてしまいました。
大洪水後、ノアの子孫たちが地に増え広がるにつれ、再び人々は神に反抗するようになっていきました。バベルに定住した人々は、二度と洪水で滅ぼされることがないようにと、団結して天まで届く塔を建て始めました。
人々が共通の話しことばで結託して神に反逆したため、神は一つだった話しことばを分裂させて、通じ合わないようにさせました。意思疎通ができなくなったため、塔の建築は放棄され、同じ話しことばを理解する人々同士が集団を作り、他の言語を話す人々とは別々に暮らすようになりました。
・五旬節の日に現れた分かれた舌 ・・・人類が創造された時「舌=話しことば」は一つだけでしたが、バベルの塔事件以降、たくさんの話しことばに分かれたことを表しています。
・分かれた舌の先端の一つがとどまると、弟子たちは、自分の知らなかった他国のことばで語り出しました。弟子たちは、自分の母語(native tongue)ではない、新しいことば(new tongue)を話す能力が与えられたのです。Tongueには「話す能力」と言う意味もあります。
一つの共通の言語は多くの言語に分裂してしまいましたが、五旬節の日、弟子たちそれぞれに、自分の母語ではない他の一つのことばを語る能力が与えられました。異なる言語を使っているため、理解し合うことが難しくなっていた人々に、相手の母語で語ったのです。それは、神が全ての人々に知ってもらいたいと願われる大切な内容を伝えるためです。その内容とは「神の大きなみわざ」でした。
五旬節の日、バベルの塔事件で人類が被った損失を取り戻す出来事が起こりました。弟子たちに与えられた異言は、通常の手段では通じ合うことのできない人々に、超自然的に語り、伝えるための宣教の手段として与えられたのです。
4.イエスを証しするために聖霊の力を受ける
イエス様は聖霊が与えられる目的について次のように言われました。
使徒1:8
聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。
聖霊が臨まれるのは、イエスの証人として、地の果てまで証しするためです。
マルコ16:17
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、
五旬節の日、弟子たちに、イエス様を証しするための新しいことば(new tongues)が与えられたのです。
ところが、彼らが異言で語っていた時、どの外国語も理解できないユダヤ人たちがいました。その人々は、弟子たちがぶどう酒に酔っぱらって、意味のない、わけの分からないことを口走っているのだと勘違いしました。その嘲りの声に気づいた時、ペテロは立ち上がって、ユダヤのことばで大胆に語り出しました(使徒2:14~41)。
使徒2:22~32
イスラエルの皆さん、これらのことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと不思議としるしを行い、それによって、あなたがたにこの方を証しされました。それは、あなたがた自身がご承知のことです。
神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです。
・・・ 彼(ダビデ)は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。
神の大きなみわざとは、イエスの十字架の死と復活です。イエスはダビデの子孫として生まれ、ご自分の血によって人類を罪から贖い、死からよみがえりました。このイエスはダビデの王座に就く方、キリストなのです。ペテロはイエスの死とよみがえりを証言し、自分たちがその証人であると宣言しました。
使徒2:36~40
ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。
聖霊が語らせるままに異言で語っていた時、ペテロには自分の声も、他の弟子たちが語る異言も聞こえていなかったかもしれません。もし聞こえていたとしても、その内容を理解できなかったでしょう。
しかし「ぶどう酒に酔っている」と嘲る声が耳に入った時、ペテロは我に返り、ユダヤのことばで力強く語り始めました。聖霊によって、語るべき言葉が次々と口から出て来たのでしょう。ペテロはユダヤ人たちに、イエスを十字架につけた罪をはっきりと指摘して悔い改めを迫り、救いを受けるように勧めました。その結果、3000人がペテロの説教に心を刺され、悔い改めてバプテスマを受けたのです。
イエス様は天に帰られる前、聖書を悟らせるために弟子たちの心を開いて、言われました。
ルカ24:46∼49
「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」
五旬節の日、都にとどまって祈っていた弟子たちは、いと高き所から力が着せられ、「イエスの名によって罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝えました。聖霊が弟子たちの舌を動かし、語るべき言葉を与えたので、彼らは、国々から集まって来ていた人々に、外国語で神の大きな御業を語りました。「イエス・キリスト、罪の無い神の御子は、人類の罪を贖うために苦しみを受けて死なれたが、三日目によみがえり、今も生きておられる。自分の罪を悔い改めてイエスの血による贖いを信じる者には罪の赦しが与えられ、賜物として聖霊が与えられる」と。
ペテロが異言で語った内容も、ユダヤの言語で語った内容も、同じ宣教メッセージだったと思われます。ペテロは、異言で語られた内容が分からなかった人々に、ユダヤの言語で解き明かしをしていたのかもしれません。そしてそれは、神から託された言葉、預言であったのです。
聖霊が臨まれると、新しいことば(new tongue=異言)でも、自分の母語(native tongue)でも、宣教のために語る力、イエスを証しする力を受けるのです。
5.パウロの異邦人伝道と異言
パウロは異邦人への使徒として召され、諸国民に福音を伝えるために命がけで主に仕えました。彼はコリントの教会に宛てた手紙で異言と預言の賜物について語り、集会の中で異言をどのように扱うか教え、異言を語る以上に、互いに理解できることばで語ることの重要性を説いています。
異言は、理解できない人にとっては意味を持ちません。五旬節の日に「彼らは酒に酔っている」と嘲った人々のように、異言でどんなに素晴らしいメッセージが語られていても、理解できない人の役には立たないのです。ですからパウロは、異言を語る人は説き明かしができるように祈りなさいと勧めています。
Ⅰコリント14:18~19、27~28
私は、あなたがたのだれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています。しかし教会では、異言で一万のことばを語るよりむしろ、ほかの人たちにも教えるために、私の知性で五つのことばを語りたいと思います。
・・・ だれかが異言で語るのであれば、二人か、多くても三人で順番に行い、一人が解き明かしをしなさい。解き明かす者がいなければ、教会では黙っていて、自分に対し、また神に対して語りなさい。
異言で語る人は御霊によって奥義を語り、自らを成長させますが、預言する人は人を育てる言葉や勧めや慰めを人に向かって話すので、教会を成長させることに役立ちます(14:2~4)。パウロはコリントの人々に、異言で語る以上に預言するようになってほしいと願いました。そして、「異言は説き明かしがなければ教会の成長には役立たない。掲示か知識か預言か教えによって語るのでなければ人の益にはならない。だから、異言を語る人よりも預言をする人の方が優っている」と説明しました(14:5~6)。
ではなぜパウロは、誰よりも多くの異言を語ることを神に感謝したのでしょうか? まさか、自分は誰よりも多くの異言で奥義を語れるから、自分は誰よりも成長したと言いたいわけではないでしょう。その理由は、五旬節の日に神様がペテロ達に異言を語らせた目的から推測することができます。
五旬節の日、天から激しい風が吹いてくるような音がして家全体に響き渡り、炎のような分かれた舌が現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまると、皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めました。それは、その時エルサレムに集まっていた外国語を話す人々に、彼らの国のことばで神の大きな御業を伝え、イエスについて証しするためでした。
パウロはイエス様から「わたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器(使徒9:15)」として選びだされ、誰よりも多くの国々に遣わされました。彼はギリシャ語が堪能だったので、どこの国でも伝道することができたでしょう。しかし、ギリシャ語をあまり理解できない人々は、パウロが熱心に宣べ伝えていることがよくわからなかったかもしれません。そんな時、聖霊がパウロに働き、異言で福音を語らせたのではないでしょうか。
ヨハネ 3:8
風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです。
パウロが熱心に語っていた時、聖霊が思いのままに吹いて来て、彼は聖霊に満たされて御霊が語らせるままに異言(その国、地方、民族の言葉)でイエス様について語り、その結果、多くの人々が御名を信じて救われたのかもしれません。ですからパウロは、諸国の民に宣教させるために自分に多くの異言を語らせ、多くの異邦人を救いに導かれた神をたたえ、感謝しているのだと考えられます。
6.クリスチャンと異言
これまで五旬節の日の出来事について導き出した結論は、ペテロ達が異言を語った目的は、異なる言語を使う人々にその人々の母語で神のみわざを伝えるため、聖霊の力によって超自然的に宣教するためであったということです。
異言の目的がそれだけなら、日本に住むクリスチャンにとって、異言を語る必然性はほとんどないでしょう。だから現代のクリスチャンに異言は必要ないと思われるかもしれません。
けれども、異言は伝道のためだけに与えられるのではありません。異言は霊によって神に語る言葉であり、異言は奥義を語っているのです。また異言は語る人を成長させることができるとパウロは教えています。
・異言で祈る時には霊が祈り、異言で賛美する時には、霊が賛美しています(Ⅰコリント14:14~15)。
・自分の知らない問題について、異言で祈らされているかもしれません。
・何をどのように祈れば良いか分からない時、御霊が呻きをもってとり成して下さいます。
・知性の祈りでは言葉が尽きてしまう時でも、異言なら長時間祈ることができます。
一方、異言が未信者や求道者をつまずかせることもありえます。誰かの異言を聞いても成長の役に立たないだけでなく、本当にそれが異言なのか、聖霊が語らせているのかと、不審に思うことがあるかもしれません。パウロがコリント教会に教えたように、礼拝で異言を語ることには配慮が必要です。
また、異言や異言の説き明かしは、御霊が御心のままに与えてくださる御霊の賜物、一人ひとりに与えられている御霊の現れです。皆が異言で語り、皆が異言の説き明かしをするわけではありません(Ⅰコリント12:7、11、30)。異言を語るからクリスチャンとしてレベルが高い、語らないからレベルが低い、ということでもありません。異言を語る人は高ぶるべきではないし、語らない人が語る人を羨んだり妬んだりする必要もありません。
パウロはダマスコ途上で天から語られるイエス様の声を聞き、眩い光を受け、目が見えなくなりました。アナニアが遣わされて手を置き、「目が見えるようになって聖霊に満たされるように」と祈ってくれた時、パウロの目から鱗のようなものが落ちて見えるようになりました(使徒9:17~18)。パウロは聖霊に満たされたでしょうが、この時、異言を語ったという記録はありません。
彼は水のバプテスマを受け、食事をして元気になり、ただちにユダヤ人の諸会堂で、「この方こそ神の子です」とイエスのことを宣べ伝え始めました。この時パウロは、同胞ユダヤ人に語るために異言を必要としなかったでしょう。主の弟子たちは、自分たちを迫害していた者がイエスを宣べ伝えていることに驚きましたが、パウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせました(使徒9:20~22)。
イエス様の弟子たちを迫害していたパウロは劇的に変えられ、力強い宣教者になりました。
パウロが聖霊に満たされた証拠は、ただちに「イエスこそ神の子・キリストである」と宣べ伝え始めたことです。聖霊が臨まれると力を受け、地の果てまでイエスの証人となります。異言であろうが母国語であろうが、イエスがキリストであると証しする、それが聖霊に満たされる目的です。
聖霊のバプテスマを受けた時、異言を語ったかどうかは問題ではありません。クリスチャンが異言に対する解釈の違いから対立し、批判し合っても益にはなりません。でも聖霊に満たされることの重要性については、すべてのクリスチャンが同意できると思います。私たちも聖霊に満たされ続け、パウロのように、熱心にイエス様を宣べ伝えていきましょう。
コメント