人生を回復させる「生ける水」

礼拝メッセージ
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コロナ禍による自粛で人との出会いがめっきり減り、改めて出会いの重要性を思わされています。一期一会ということばがあります。茶道に由来することわざで、「あなたと出会ったこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのもの。だから、この一瞬を大切にしよう」と意味です。今日の聖書箇所のサマリアの女にとって、救い主イエス様との出会いはまさに一期一会だったはずですが、彼女は最初、この出会いの意味を悟ることができませんでした。しかし、イエス様はこの一度の出会いで、彼女の人生を変えたのです。

聖書箇所:ヨハネの福音書4:1~15

4:1 パリサイ人たちは、イエスがヨハネよりも多くの弟子を作ってバプテスマを授けている、と伝え聞いた。それを知るとイエスは、
4:2 ──バプテスマを授けていたのはイエスご自身ではなく、弟子たちであったのだが──
4:3 ユダヤを去って、再びガリラヤへ向かわれた。
4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった。
4:5 それでイエスは、ヤコブがその子ヨセフに与えた地所に近い、スカルというサマリアの町に来られた。
4:6 そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった。
4:7 一人のサマリアの女が、水を汲みに来た。イエスは彼女に、「わたしに水を飲ませてください」と言われた。
4:8 弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。
4:9 そのサマリアの女は言った。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしなかったのである。
4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」
4:11 その女は言った。「主よ。あなたは汲む物を持っておられませんし、この井戸は深いのです。その生ける水を、どこから手に入れられるのでしょうか。
4:12 あなたは、私たちの父ヤコブより偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を下さって、彼自身も、その子たちも家畜も、この井戸から飲みました。」
4:13 イエスは答えられた。「この水を飲む人はみな、また渇きます。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」
4:15 彼女はイエスに言った。「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

1.一人のサマリアの女

サマリア人についての背景

私たちは、良きサマリア人の話から、サマリア人に対して良い印象をもっています。しかし、イエス様の弟子たちやユダヤ人はサマリア人に対して、悪い印象を、それも非常に悪い印象を持っていました。

その昔、ダビデ王、ソロモン王の後、イスラエル王国は南北に分裂しました。北イスラエル(10部族)は、南ユダ(2部族)のエルサレムに対抗して、サマリアのゲリジム山に神殿を築き、礼拝の場所としましたが、真の神から離れ、バアル神などの偶像礼拝を持ち込んで堕落します。その結果、神の裁きに会い、アッシリア帝国に滅ぼされ、主だった人々は異国の地に連れ去られました(アッシリア捕囚)。残った人々は入ってきた異民族と雑婚させられ、こうして、サマリア人が誕生しました。彼らは、聖書はモーセ5書を使っていましたが、アブラハムがイサクをささげた場所をモリヤの山(エルサレム)からゲリジム山に変更するなど、所々を改ざんしたもの(サマリア5書)でした。

BC2世紀になると、ギリシャのアレクサンダー大王の軍隊(アンティオコス朝シリア)が、この地域を支配しますが、サマリア人は迫害を恐れて、ギリシャの文化や宗教(ジュピター神の像)を受け入れ、ヘレニズム化(ギリシャ化)していきました。イスラエル民族の血を引きながら、異民族との混血、異教との混交で何でもありの宗教に変質していきました。ある意味、日本の神仏混交と似ています。

南ユダのユダヤ人は、このようなサマリア人を異邦人のようにみなしていました。BC128年、南ユダでは、ユダヤ人が反乱を起こし、エルサレムをアンティオコス朝シリアの支配から解放し、エルサレムの宮をきよめました。それに続いて、ユダヤ人は偶像の宮となっていたサマリアにあるゲリジム山の神殿を破壊したのです。それ以降、サマリア人とユダヤ人は絶交状態、犬猿の仲となり、イエス様の時代になります。

偶然か必然か

イエス様が先にヤコブの井戸の傍らに座っているところに、一人のサマリアの女が水を汲みにきますが、これは偶然なのでしょうか。

4:4 しかし、サマリアを通って行かなければならなかった

他の道が通れなかったのではなく、どうしてもサマリアにいかなければならない何かがあったのです。それは、この後の文脈を見ればわかるように、ひとりの見知らぬ女に会うことでした。イエス様には、その女がこの時間にヤコブの井戸に水を汲みにくることが分かっていました。それで、サマリアを通って行かなければならなかったのです。

イエス様は後に起こることをすべてご存じでした。神の予知です。イエス様が最後にエルサレムに上った時、荘厳な城壁を見て感動している弟子たちに、一つとして石が積まれたまま残されることのない時が来ると予告され、そのとおり、後にローマ軍によってエルサレムの宮は破壊し尽くされます。最後の晩餐の時、鶏が鳴く前にペテロが3度イエス様を否定することを予告され、そのとおりになりました。

さて、このサマリアの女ですが、とてもユニークな女性です。今でも5回も離婚歴があれば、変な評判が立って、近所付き合いが難しいですが、当時はもっと厳しい状況でした。当時の女性は社会的に立場が弱く、今のような人権もなかったのです。自分から離婚することはできず、夫だけが、正当な理由をつけて妻を離婚することができた(申命記24章)ので、夫が次々に早死にしたのか、あるいは、よっぽど、何か訳アリだったのかもしれません。しかも今は夫ではない者と同棲しているのです。彼女は、人の目をはばかって、昼間(ユダヤ時間の第6時は正午ごろ)の炎天下、誰もいない時間を見計らって水を汲みに来ました。(水くみは重労働なので、通常は涼しい朝に、何人かで行われます。井戸で女たちが集まると井戸端会議となります。)

このようなサマリア人の女に、イエス様は福音を伝えるためにわざわざ出向いたのです。世間体を考えれば、ラビ(先生)としては、できれば避けたい状況です。(イエス様は、ラビ(先生)のような服装をされていたのでしょう。11節の「主よ。」は前の第3版の訳では、「先生」となっています。)しかし、イエス様は世間体などお構いなし、イエス様の方から声をかけました。

ありえない出会い

女はびっくりしたでしょう。見知らぬ男性が、それもユダヤ人の男性が声をかけてきたのです。しかも見るからにラビのような方が、直接話しかけてきたのです。こんな出会いはあり得ないことです。4:9では、「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリアの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」となっていますが、リビングバイブルの訳では、

4:9 「あれまあ、あんたユダヤ人じゃないのさ。 あたしはサマリア人だよ。 なのにどうして、水をくれなんて頼むのさ。」

となっています。場違いな様子なのがよくわかります。
それに対して、イエス様は、この出会いがとても重要な出会いで、まさに一期一会の出会いであることを示唆されます。

4:10 イエスは答えられた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、水を飲ませてくださいとあなたに言っているのがだれなのかを知っていたら、あなたのほうからその人に求めていたでしょう。そして、その人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」

イエス様は、ご自身が神の賜物、つまり神が与えてくださる救い、永遠のいのちをもたらす者であり、その確証として、生ける水を与えてくださると示唆しています。あなたと会って話しているのは救い主メシアですよと言わんとしているのです。
しかし、この女は、イエス様の言われたことを理解していません。生ける水を、ただ渇きを潤す飲む水のことと思っています。

2.生ける水

神への飢え渇き

4:13で、「この水を飲む人はみな、また渇きます」とイエス様は言われていますが、これは、生理的な渇きとともに心の渇きのことも言っています。人はみな、根本的に神への飢え渇きがあります。ダビデは言いました。

詩篇42:1-2「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。わたしのたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて、渇いています。」

けれども、神から離れてしまった人間は、その渇きを神以外のもので満たそうとします。お酒、お金、車、ファッションなどの物質的なものから、学問、スポーツ、芸術、仕事など、打ち込むもので満たそうとします。けれども、イエス様が、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。」と言われたように、また渇いてしまいます。自分の求めているものが手に入ると、「もっと、もっと、更に上に。」と思い、心に満足や安らぎが与えられることがないのです。欲望には際限がありません。

渇くことの無い水

4:14 「しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。

この水は、だれでも飲むことができます。ユダヤ人だけでなく、サマリア人、異邦人も、すべての人です。イエス・キリストの十字架は私のためであったと告白し、3日目によみがえった主を私の救い主と受け入れる全ての人が、この水を飲むことができます。

その人の内から湧き出る水とは、永遠のいのちのへの水です。この水は、御霊(聖霊)のことであると、この後7章に書かれています。

ヨハネの福音書 7:38-39
7:38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。

女は、イエス様が言われた生ける水の意味、永遠のいのちにいたる救いのことをまだ理解していないようです。しかし、すがるような思いも湧いてきたのでしょう。「渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」とイエス様に訴えています。

これに対して、聖書のこの後を見ると、意外な展開になります。

ヨハネ 4:16-30
4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」
4:17 彼女は答えた。「私には夫がいません。」イエスは言われた。「自分には夫がいない、と言ったのは、そのとおりです。
4:18 あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから。あなたは本当のことを言いました。」
4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。
4:20 私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
4:21 イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。
4:22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
4:23 しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」
4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」
4:27 そのとき、弟子たちが戻って来て、イエスが女の人と話しておられるのを見て驚いた。だが、「何をお求めですか」「なぜ彼女と話しておられるのですか」と言う人はだれもいなかった。
4:28 彼女は、自分の水がめを置いたまま町へ行き、人々に言った。
4:29 「来て、見てください。私がしたことを、すべて私に話した人がいます。もしかすると、この方がキリストなのでしょうか。」
4:30 そこで、人々は町を出て、イエスのもとにやって来た。

生ける水を得るためのプロセス

イエス様は唐突な要求をします。

4:16 イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」

生ける水を下さいという女に対して、イエス様は、夫をここに呼んで来いというのです。会話になっていません。
しかし、この「夫を呼んできなさい」という言葉が、生ける水を受けるためのカギでした。この女の飢え渇きの根本にあったのが、男性に頼る生き方にあったからです。当時は男社会で、女性が一人で自立して社会生活を営むことはほとんど不可能でした。この女は、自分の力で、男性につながることに生きる術を見出そうとしていたのでしょう。しかし夫となった人との人間関係は満ち足りたものではなかったようです。5回の離婚がそのことを物語っています。満たされるようにと願うが、実際は渇きの連続だったのです。
「夫を呼んで来なさい」というのは、「今仕えている主人を呼んで来なさい」ということです。イエス様は、この後、ご自身が約束の救い主、キリストであることを明かされますが、女の主人を呼んで来させたうえで、第一に仕えるべき主は誰なのかを教え、主なる神と共に歩むことを教えようとしているのです。
何を着ようか、何を食べようかと、自分の必要を第一にするのではなく、まず神の国とその義とを求めよ、そうすれば、それらのものは加えて与えられる、とイエス様は山上の垂訓でも教えられました(マタイ6:33)。

この神に立ち返ることが、生ける水を得るために必要なプロセスだったのです。

約束の預言者

それに対して、女が自分には夫はいないと答えると、イエス様は、今までの5回の離婚歴、そして今は同棲していることを指摘します。女は自分の過去を全て見抜かれていたことで、意識が変わりました。この名も知らないユダヤ人のラビはなぜ私の過去を知っているの?ユダヤ人は、ここサマリアにはいないので、私のことなど知る由もないはずなのに、なぜ? この方はひょっとしたら、あの約束の預言者ではないのか?!

サマリア人は、モーセ5書を読んでいましたので、この女も申命記18章から、救い主メシアはモーセの様な預言者として来ることを知っていたのでしょう。心臓の鼓動が早くなったと思います。

4:19 彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。」

そして、イエス様のことを預言者と告白したうえで、ならば、サマリア人とユダヤ人は、同じ(ヤハウェ)を礼拝しているのに、ユダヤ人はエルサレムで、かたやサマリア人はゲリジム山で礼拝している、どちらが正しいのかと疑問をぶつけます。約束の預言者ならずっと疑問に思っていたこのことを教えてくれるかもしれないと。

しかし、イエス様の答えは、ちょっと意外でした。更にびっくりです。

4:21-22「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたち(ユダヤ人)は知って礼拝していますが、あなた方(サマリア人)は知らないで礼拝しています。」

ここには、聖書を改ざんして変な宗教にしてしまったことはとやかく言わないで、あなた方は、ただ救い、つまり救い主メシアはユダヤ人(ユダ族)から出るということを知らずに礼拝している。しかし、真剣に、まじめに礼拝していると。そのうえで、礼拝で重要なのは、礼拝する場所ではなく、礼拝する人の姿勢、心の状態にあるとして、まことの礼拝の姿を教えます。

まことの礼拝

4:23 「しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。」

“御霊と真理によって”。難しい言葉です。以前の第3版の訳では「霊とまことによって」となっていましたが、いろんな訳があります。「全身全霊をもって」、「霊的に、偽りのない心で」、「御霊の助けと真理の御言葉によって」とか・・・。礼拝の形式や場所が重要なのではないということです。

今回思わされたのは、真の礼拝とは、日曜日に教会に行って礼拝をすることだけではないということです。以前、イスラエルのための祈り会で、へブル的な「礼拝」について学んだことがあります。その時の内容をかいつまんでいうと、
聖書的な礼拝とは、日曜だけ教会に行って礼拝することではなく、生活のあらゆる領域で神をあがめ、神の栄光を表す事。その意味で「労働」は神に仕え、神をあがめる礼拝の一つ、聖書の学びは「最高の礼拝」。へブル的に霊的であるとは、物質や肉体に対する精神世界のことではなく、人間らしくあること、活動的な生活の中で神を感じ取り、創造主の御業を認め、人生の中で神の存在を知ることであると。

コロサイ3:23 「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」

まことの礼拝者にとって、生活の場全てが礼拝の場でもあるのです。

話を戻しますが、この言葉を聞いて、この女は「キリストと呼ばれるメシア、救い主を信じていることを告白します。

4:25 女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

イエス様は、メシアを待ち望むこの女の心をご存じでした。だから、サマリアに来なくてはならなかったのです。この女に生ける水を与えるために。そして、ご自身がキリストであると明かされました。

3.新たな人生

救い主との出会い

この後の話になりますが、イエス様は、パリサイ人たちから、あなたはメシアなのかと問われてもはっきりとは答えられませんでした。彼らはメシアが来るのは知識としては知っていましたが、心からメシアを待ち望んでいなかったからです。しかし、このサマリアの女は人生に絶望している中、ただ一つの希望をメシアに抱いていたのです。イエス様はそれをご存じだったのです。イエス様はずばり核心に触れます。

4:26 イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

サマリアの女、この言葉を聞いて、驚きも頂点に達したと思います。今自分と話しているのが、あの約束の預言者、救い主メシア⁉ 居ても立ってもいられず、水がめをおいたまま、町に取って返します。

この女は、町に行ったのですが、手あたり次第人々に声をかけまくったのでしょうか?
28節の、「人々」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語を見ると、「その人たち(文脈では男たち)」という特定の男を指すことばです英訳では、“the men” 、“the people”というように、特定する定冠詞“the” がついています。

生き生きとした人生

イエス様は前の場面で、この女に「行って、町の人々を呼んできなさい」とは言われたのでしょうか。いいえ。イエス様は、「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」(4:16)と言われたのです。この女は、イエス様の命令に忠実に従ったのだと思います。今の同棲相手とそこに居合わせた人たち、前の夫とそこに居合わせた人たち、その前の夫・・・・といった具合に、「来て!見て!・・・」と。そこにいるのは、もはや陰に隠れ人目を避ける女ではなく、メシアに会ったことを伝えたい情熱に満ちた女です。

何故、イエス様は夫を呼んで来いと言ったのでしょうか。彼女の離婚歴は町の人々には既に知られていたでしょう。今さら表ざたにして、何になるのでしょうか?
私は、イエス様は、彼女を人々に救い主が来たという良い知らせを伝える栄誉ある使者にしたかったのでないかと思います。

イザヤ 52:7
良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。

そうすることで、これまで、人の目を避けて陰の生活をしてきたこの女を、光の中を歩む者に変えたかったのだと思います。離婚した5人の元夫たちとの人間関係を回復し、世間の人々の評価を劇的に変えることになったと思います。

サマリアの女は、それまでの死んだような状態から、生活の中で生き生きと神を証しする聖書的な礼拝者に変わりました。彼女なりに御霊と真理によって、霊とまことによって神を礼拝するものへと変えられたと思います。

多くの収穫

この女の証言によって、実際に、多くの男たちが、町を出てイエス様のほうにやってきました。そして、イエス様を救い主と信じました。この後を見ると、イエス様は2日間サマリアに滞在し、更に多くの者がイエス様を信じました(40-41節)。しかし、それだけではないかもしれません。その後のことは書かれていませんが、この女はもう人の目を気にしてこっそり水を汲みに来ることは無くなったはずです。それどころか、生ける水があふれ出て、人々に救い主イエス様を伝える者になったかもしれません。

使徒の働き8章を見ると、聖霊が降ったペンテコステの後、伝道者ピリポがサマリアに行き、多くの人々が救い主イエス様を信じ、救われる(大収穫)記事がありますが、ひょっとしたら、ピリポの大収穫の陰にはこのサマリアの女の種まきがあったからかもしれません。

結び. まことの礼拝者へ

今日はサマリアの女の場面から、人生を回復させる「生ける水」についてメッセージしました。生きる目的を失い、心が飢え渇いた女性に、イエス様は渇くことのない生ける水を与えることで、彼女の人生を回復させました。
イエス様との出会いによって、誰もが変わります。サマリアの女は、生ける水が泉となって沸き上がってきました。パッション情熱となって沸き上がってきました。それが、アクションとなって町に出て行きました。日陰の女が、光の中を歩むものに変えられました。

私たちが、この地に、この時代に、ここに生を受けているのは、偶然でしょうか。イエス様がサマリアの女に会われたように、神のご計画があるからではないでしょうか。今ここで、生活の中で神を認め、生き生きと過ごすことは、御霊と真理によって、霊とまことによって神を礼拝することにつながります。

世にあっては辛いことがあるかもしれません。嫌なことがあるかもしれません。今試練を通過しているかもしれません。しかし、は共にいて、私たちを強め、守り、導いてくださいます。
弱い時にこそ、私たちを強めてくださる(Ⅱコリント12:9-10)によって、信仰を奮い立たせていただきましょう。
過去も、現在も、未来も神の御手の中にあります。今を精一杯生き、生活の中で生ける神を認め、神を証しすることがまことの礼拝者の姿です。一人ひとりがその場で神の栄光を現し、生けるいのちの水を回りに流していきましょう。

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