私たちがイエス様を救い主として信じ、救われた背景は、一人ひとり違いますが、一つだけ共通したことがあります。それは、誰かが私たちに福音を伝えたということです。しかし、この福音は、そもそも私たちに最初に与えられたものではありませんでした。聖書の神はアブラハムを召し、アブラハム、イサク、イスラエルを通して、すべての民族を救う計画を立てられ、最初にイスラエルの民に福音が伝えられました。しかし、イスラエルは心を頑なにし、福音を拒否してしまいました。そこには神の秘められた計画があったのです。その秘められた計画とは・・・。
聖書箇所: ローマ人への手紙 10章1節~4節
ローマ10:1-4
10:1 兄弟たちよ。私の心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らの救いです。
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることを証ししますが、その熱心は知識に基づくものではありません。
10:3 彼らは神の義を知らずに、自らの義を立てようとして、神の義に従わなかったのです。
10:4 律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
1.知識に基づかない熱心
大いなる誤解
10:1で、この手紙を書いたパウロは、同胞のイスラエルが救われていないことを憂いて、神に彼らの救いを祈っています。彼らは神に対しては熱心ですが、その熱心さは「知識」に基づくものではないために、結果として道を誤り、神の義を受けられずにいると言っています。この「知識」と訳されている言葉は、他の訳を見ると、新共同訳では「正しい認識」、口語訳では「深い知識」となっています。表面的な知識ではなく、本質まで踏み込んだ深い知識のことです。私たちもよく吟味せずに、勝手な思い込みで行動して失敗することがありますが、パウロは同胞たちがそのような状態にあると憂いているのです。
というのも、パウロ自身がかつてはそのような者であったからです。ダマスコへの途上で、イエス様に直接出会う前までは、パウロは厳格なパリサイ人として、律法に熱心なあまり、教会を激しく迫害し、滅ぼそうとする者でした(ガラテヤ1:13、ピリピ3:6)。聖書(旧約聖書)に約束された救い主によって「神の義」を得るという信仰、つまり正しい認識、深い知識を知らずに、律法を守り行うことで義を得ようという「行いによる義」、「自らの義」に熱心な者でした。ですから、パウロは昔の自分を見ているようで、誤解している同胞たちが、真理(正しい知識)に目覚めてほしいと願っているのです。イエス様が十字架上で、自分を十字架にかけた者たちへの赦しを祈られたときに、「彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と言われたように、彼らは、自分が間違ったことをしているとは思っておらず、かえって正しいことをしていると誤解しているのです。
バビロン捕囚の反動
なぜ、当時のイスラエルはこれほどまでに、律法を守り行うことに熱心だったのでしょうか。そもそも、イスラエルは神の民として律法を守り行うことで、神の祝福(約束の地、豊かな食物、多くの子孫)を受けてきました。しかし、先祖が、真の神【主】から離れ、律法に背き、異教の神、偶像礼拝に走ったことで神に裁かれ、紀元前6世紀、バビロンによって、国が滅ぼされ、人々は奴隷としてバビロンへ引かれていったという悲しい歴史(バビロン捕囚)があります。その70年後、バビロンを滅ぼしたペルシャにより、帰還が許され、エルサレムを再建することになりますが、この時イスラエルの民は、律法に背いて国が滅ぼされたことへの反動で、律法を重んじるようになります。しかし、エルサレム再建時の預言者マラキを最後に、その後400年間にわたり、バプテスマのヨハネが現れるまで、神の御心、神のことばを民に伝える預言者は現れませんでした。この間は、預言者に代わり、律法学者、パリサイ人らが指導者となり、人間の知恵で律法を守ろうとして、神から与えられたモーセの律法よりさらに厳しい口伝律法(先祖たちの言い伝え)を民に強いることになったのです。彼らは神の御心が分からず、正しい知識に基づかず、行いによる義を求めるようになったのです。
正しい知識
パリサイ人らは、律法を守ることによって義を得ようとしました。つまり、行いによって、神から罪の赦しをいただき、永遠の命を得ようとしたのです。しかし、パウロは、神の義は、福音を信じること、つまり救い主であるキリスト、神の御子であり、ダビデの子孫として生まれ、十字架にかかり、死者の中から復活したイエスを信じる信仰によって得られると言っています。
ローマ 1:2-4
1:2この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、1:3 御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、
1:4 聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。
そもそも律法を全て守り行うことは、人間の力では不可能です。一つでも破れば、律法の全体を破ることになるからです(ヤコブ2:10)。
モーセの律法には、613の戒め(365の禁止+248の実施)があると言われていて、これを全て守り行うことは困難です。しかし、その律法について、イエス様は、律法の全体は2つの戒めにかかっている(集約される)と言われました。
マタイの福音書 22:37-40
22:37 イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』
22:38 これが、重要な第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。
22:40 この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」
この二つの戒めが、律法の真意、神の御心だからです。そして、パウロは、更にこれを1つの戒めにしています。
ローマ 1:17
福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
“義人は信仰によって生きる。” これはハバクク書2:4からの引用です。キリストを信じる信仰によって、私たち異邦人は神の義をいただきました。信仰義認です。
しかし、行いによって律法を追い求めたイスラエルは義に至りませんでした。彼らはつまずきの石につまずいたのです。そのことが、今日の聖書箇所の直前に書かれています。
2.つまずきの石につまずいたイスラエル
つまずきの石
ローマ 9:30-33
9:30 それでは、どのように言うべきでしょうか。義を追い求めなかった異邦人が義を、すなわち、信仰による義を得ました。
9:31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めていたのに、その律法に到達しませんでした。
9:32 なぜでしょうか。信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。
9:33 「見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。この方に信頼する者は失望させられることがない」と書いてあるとおりです。
9:33の御言葉は、イザヤ書28:16からの引用です。
イザヤ 28:16
28:16 それゆえ、【神】である主はこう言われる。「見よ、わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊い要石。これに信頼する者は慌てふためくことがない。
ここでパウロは“礎の石、尊い要石”となっているところを、あえて、“つまずきの石、妨げの岩”という言葉に置き換えています。
ただ、救い主を信じる信仰によって神の義を得た異邦人にとっては、イエス様は十字架という試みを経た石であり、復活されて永遠のいのちを約束してくださる堅く据えられた礎の石であり、人間に与えられたただ一つの救いの御名(使徒4:12)である要の石なのです。(礎の石、要の石については、「家を建てる者たちの見捨てた石」を参照)
しかし、行いによって義を得ようとしたイスラエルにとって、ただ救い主を信じることで神の義を得られるというのは理解できないものでした。ましてや、十字架にかかった者がメシア救い主であるとは受け入れ難いものでした。律法によれは、木に掛けられたものは呪われたものなので、呪われたものがメシア、キリストであるなどとは、彼らにとってはありえないことなのです。つまずきの石、妨げの岩なのです。
イスラエルのつまずきは定められたこと
同じイエス様が、異邦人にとっては礎の石になり、一方、イスラエルにとってはつまずきの石となってしまいました。しかし、イスラエルがこのようにつまずきの石につまずいたのは、実はそのように定められていたことであるとペテロの手紙に書かれています。
Ⅰペテロ 2:6-8
2:6 聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」
2:7 したがってこの石は、信じているあなたがたには尊いものですが、信じていない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」のであり、
2:8 それは「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからであり、また、そうなるように定められていたのです。
「家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった」というみことばはイエス様のことです。使徒の働き4章で、ペテロが生まれつき足の萎えた人を癒した時の弁明で、大祭司や民の指導者らに、この石はイエス様のことであると証ししました。イエス様は民の指導者に捨てられ、十字架に掛けられたが、神が死者の中から復活させたことでイエス様が、キリストであり、救いの要の石であると。そして、そのイエスの御名が、この生まれつき足の萎えた人を癒したのだと証ししたのでした。しかし、大祭司ら指導者らは、聖書のみことばを引用したペテロの証しを受け入れず、つまり、みことばに従わず、イエス様につまずいたのでした。しかも彼らがつまずいたのは、そのように定められていたからだとペテロは言っています。
このことについては、後で改めて触れます。
3.律法が目指すものはキリスト
律法とキリスト
律法を守り行うことで、義を得ようとしたイスラエルは、神の義を知らずに、救い主イエス様を拒否してしまいましたが、パウロは、そのイエス様が律法の目標(目指すもの)、成就だと言っています。
ローマ 10:4
律法が目指すものはキリストです。それで、義は信じる者すべてに与えられるのです。
新改訳2017では、「律法が目指すものはキリストです。」となっていますが、他の訳では「キリストは律法を終わらせました」、或いは「成就しました」となっています。
キリストは、罪は犯されませんでしたが、私たちの罪を贖うために十字架にかかり、いのちを捨てられました。そして、罪の刑罰が終わったことの証しとして、死者の中から復活されたのです。このことによって、キリストは律法の要求を全て満たし、律法を成就し、義に至る方法としての律法を終わらせたのです。ですから、キリストを信じる者は、その信仰によって神の義をいただくことができるのです。
主の御名を呼び求める
この神の義は、イエスの御名を呼び求めるすべての人に与えられることが、ローマ書10:9-13に書かれています。
ローマ 10:9-13
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」
10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。
「イエスを主と告白する」ということは、イエスは神であり、人生の主人であると認めることです。“口で告白”というのは、周囲に表明する、明らかにするという意味です。ことばで表明することはもちろん、手話でも、文字にしてもよいのです。
もう何年も前のことですが、サッカーのブラジル代表にロナウドというスーパースターがいました。怪物と言われたストライカー(点取り屋)です。ワールドカップ本大会の試合で、その彼が得点を挙げた時、とても変わった喜びの表現をしました。数万人の大観衆の前で、TV中継を考えれば数億人が見ている前で、何と彼はユニフォームを脱ぎ、下に来ていたアンダーシャツを見ろとアピールしたのです。そこには、“Jesus is Lord” 「イエスは主」と書かれていました。得点をあげた彼は、神に栄光を帰すと同時に、大観衆を前に信仰の告白をしたのです。
また、「イエスのよみがえりを信じる」とは、私たちの背きの罪のためにイエス様が十字架にかかり、その刑罰が完了したことの証しであると信じることであり、私たちもイエス様の復活に与ることなのです。こうして、神の義をいただいて救われるのです。
「心で信じる」ことと、「口で告白する」ことは、別々のことではありません。同じことを並べて言っています。信じたら、告白するようになります。逆に、信じてなければ、告白することはできません。
Ⅰコリント12:3b
「聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。」
とあるように、私たちは、イエス様を救い主と信じた時に、救いの証印として聖霊が与えられるからです。(エペソ1:13)
このように、救われる方法、神の義を得る方法はただ1つ。行いによる義ではなく、救い主イエスを信じる信仰によるのです。これは、ユダヤ人にもギリシア人(異邦人)にも区別はありません。主は全ての人の主だからです。
そして、「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」(10:11)とあるように、救い主イエスを信じる者はだれでも、律法の民イスラエルであろうが、律法を持たない異邦人であろうが関係なく、だれでも必ず救われるとの神の約束なのです。
主の御名
10:13は、ヨエル書からの引用です。
ヨエル2:32
「【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。」
ペテロがペンテコステの日に、イスラエルの民3000人を救いに導いた(使徒2:21)時に使ったみことばです。主の御名とは、「イエス」のこと。「イエス」はヘブル語では“イェシュア” 「主は救い」という意味です。主の名を呼び求めるということは、単に名前のことを言っているのではありません。イエスが救い主であると信じ、救い主を呼び求めることなのです。
そして、呼び求めた者はみな救われるとあるように、救いはすべての人に開かれています。福音です。逆の言い方をすれば、イスラエルも異邦人も、救いはイエス(=神の義)にしかないということなのです。
しかし、イエスを信じていない人はどのように呼び求めればよいのでしょうか
福音を伝えること
ローマ 10:14-15
10:14 しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。
10:15 遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」と書いてあるようにです。
誰かが福音を伝え、福音を聞かせなければ、救いの道を知ることはできません。10:15の「なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は」は、イザヤ52:7のみことばです。このみことばは、バビロンによって国が滅ぼされ、捕囚に引かれていった民が、70年後に解放されて、エルサレムに戻ってくる、その良い知らせを伝える人のことを言っています。パウロはこのみことばを引用し、バビロン捕囚からの帰還よりはるかに素晴らしい永遠の命をもたらす救い主イエス様を告げ知らせる者は、何と美しいことかと言っているのです。
4.秘められた計画
頑ななイスラエル
しかし、イスラエルは、この福音を聞いても悟らず、神の義に従わなかったのです。
ローマ 10:19-20
10:19 では、私は尋ねます。イスラエルは知らなかったのでしょうか。まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者たちであなたがたのねたみを引き起こし、愚かな国民であなたがたの怒りを燃えさせる。」
10:20 また、イザヤは大胆にもこう言っています。「わたしを探さなかった者たちにわたしは見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した。」
イスラエルからみれば、異邦人は神との契約に入っていないので、「(神の)民ではない者」、神を知らない「愚かな者」です。また、創造主である「神を探さなかった者たち」であり、「尋ねなかった者たち」です。そんな異邦人が神からの恵みを受け、神の義をいただいたのです。
一方、イスラエルは神との契約に入れられた選びの民であるがゆえに、神に背けば裁かれて国が滅ぼされ(バビロン捕囚)るなど、厳しい取り扱いを受けました。その反動で、神からいただいたモーセの律法を守ろうとするあまり、更に厳格な口伝律法を作り、いつの間にかこれを守り行うことが目的になってしまったのです。行いによって自らの義を得ようとしたのです。これはもう重荷です、難行、苦行の宗教です。そうした中、何の重荷もない異邦人が、恵みにより神の義をいただくのを見て、イスラエルは妬み、心を頑なにしていきました。しかもそれは、モーセの時代からのイスラエルの民の性格でした。“うなじを固くする民“(出エジプト32:9、他)なのです。
しかし、そんな頑ななイスラエルを、神は退けることはせず、かえって忍耐して待っておられます。
ローマ 10:21
そして、イスラエルのことをこう言っています。「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」
不従順で、反抗的な民イスラエルに、神は一日中手を差し伸べて、立ち帰るのを待っておられます。なぜなら、イスラエルが頑なになることを神はご存じだからです。Ⅰペテロ2:6で、ペテロが明らかにしたように、イスラエルは頑なになるように定められていました。私たち異邦人へ福音が宣べ伝えられるそのために定められたことだったのです。イスラエルが頑なになったことで、福音が異邦人へもたらされる、それが神のご計画だからなのです。ローマ11:11にこう記されています。
ローマ 11:11
それでは尋ねますが、彼らがつまずいたのは倒れるためでしょうか。決してそんなことはありません。かえって、彼らの背きによって、救いが異邦人に及び、イスラエルにねたみを起こさせました。
イスラエルのつまずきは奥義
しかも、そのイスラエルも、頑なにされているのは一時のことであることがローマ11:25-27に書かれています。
ローマ 11:25-27
11:25 兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われるのです。「救い出す者がシオンから現れ、ヤコブから不敬虔を除き去る。
11:27 これこそ、彼らと結ぶわたしの契約、すなわち、わたしが彼らの罪を取り除く時である」と書いてあるとおりです。
イスラエルが一時頑なにされること、そのことを通して福音が異邦人へもたらされること、これは奥義だというのです。奥義とは、それまで明らかになっていなかったことが明らかになることです。別の訳では、「秘められた計画」と訳されています。旧約聖書を通して、預言者を通して、イスラエルの民はメシア、救い主が与えられることを知らされていました。しかし、実際に神の御子イエス様が来られた時、指導者らは数々のメシアのしるしを見ながらもイエス様を拒否しました。その結果、救いが先に異邦人へもたらされることになりました。これが奥義なのです。そして、異邦人の救われる者が満ちた時、イスラエルもすべて救われるとの約束です。それは、救い出す者イエス様が再臨されるその時に実現すると預言されています(イザヤ59:20-21、エレミヤ31:31-33)。これが神のご計画なのです。
結び:イスラエルのつまずきは異邦人のため
今日はローマ書10章を中心に、イスラエルのつまずきによって救いが異邦人へもたらされたこと、それが神のご計画であったことを分かち合ってきました。
詩篇118:22-23
118:22 家を建てる者たちが捨てた石 それが要の石となった。
118:23 これは【主】がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
繰り返しになりますが、使徒の働き4章で、聖霊が降ったペンテコステの日の後、ペテロが生まれつき足の萎えた人を癒し、民の指導者らにイエスがキリストであると証ししたとき、このみことばを引用しました。しかし、民の指導者はペテロの証しを受け入れませんでした。それは、私たち異邦人に救いをもたらすために、神が一時イスラエルの民の心を頑なにされたからです。もし、ペテロの説教で指導者らが悔い改めて、イエス様を救い主と認めていたら、イスラエルは救われたでしょう。しかし、そうなると、私たち異邦人の救いはどうなっていたことでしょう。
しかし、神のみこころは、イスラエルをつまずかせることでした。しかも、それは異邦人の満ちる時までです。異邦人を救い、そしてイスラエルを救うためです。イエス様も言われました。
マタイ19:30
先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
神を求めていなかった異邦人が先に救われ、先に神から律法を与えられたイスラエルが後に救われる。私たちの目には不思議なことですが、そのようにして、イスラエルと異邦人が一つとなって救いが完成するのです。人の理解をはるかに超えた神の偉大なご計画に感謝をささげましょう。
そして、聖書から、神のご計画を正しく知り、イスラエルがつまずいた意味を理解し、私たち同胞の救いだけでなく、イスラエルの救いのためにもとりなしていきましょう。
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