マルコの福音書は4つの福音書の中でも、私たち旧約聖書を良く知らない異邦人には一番読みやすいと思います。文章も簡潔で、ストーリーも癒しや奇跡など、次から次へと様々な出来事がスピーディに展開し、映画を見ているかのようです。読み始めたら、時を忘れて一気に読んでしまうのではないでしょうか。聖書を初めて読む方には、このマルコの福音書から読むようにお勧めする牧師先生が多いようです。そのようなマルコの福音書ですが、今回は1章から、イエス様が「神の国の福音」を宣べ伝え始めた“時”について、なぜこの時であったのか、どのような意味があるのか分かち合います。
御言葉箇所:マルコの福音書 1:14-15
1:14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
1.福音宣教のはじめ
マルコの福音書の背景
そもそも、マルコがこの福音書を書いたのは、ローマで宣教していたペテロの通訳をしていて、ペテロが語ったことをローマの人々が理解できるように、きちんと伝えるためでした。当時ローマの信仰者の群れ(教会)は旧約聖書の知識が無い異邦人の群れです。クラウディオ帝の時に出されたユダヤ人追放令で、ローマからユダヤ人がいなくなったからです。旧約聖書を知らない、つまり、創造主なる唯一まことの神を知らない人たちに、イエス様が神の御子であり、キリスト、救い主であることをイエス様が行った様々な奇跡や言動から証ししたのです。
マルコの決意
マルコの福音書1:1
神の子、イエス・キリストの福音のはじめ
マルコの福音書の書き出しです。この一文は、読めば読むほど重みが出てきます。文章が“はじめ”という言葉で終わっているのでいろんな意味にとれます。この福音書全体を表す表題とも取れますし、次の2節目以降の活動開始のことともとれます。しかし私には、神の子であり、キリストであるイエス様の福音宣教がついに始まったというマルコの並々ならぬ思いの表れではないかと思えるのです。
というのは、「福音」と訳されている言葉、ギリシヤ語の『ユーアンゲリオン』は、“喜びのおとずれ”、“良き知らせ”という意味ですが、このことばは当時、神として崇められていたローマ皇帝の誕生や戴冠式など祝い事に使うことばだったからです。そのことばを「神の子、イエス・キリスト(別訳では、キリストであるイエス)の福音」というように、イエス様に使ったのです。しかも、イエス様を神の子、キリストであるとはっきり宣言しているのです。当時は、ローマ皇帝に反逆する者は死刑にされる時代です。イエス様も神の子、ユダヤ人の王と告白したことで、ローマ皇帝への反逆とされ、死刑(十字架刑)とされました。マルコがどこまで意識していたかはわかりませんが、この一文は、この福音書が命がけの福音書であると宣言しているように伝わってきます。
イエス様ご自身が10:45で「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」と言われているように、マルコも弟子として、いのちがけの決意を表しているのではないでしょうか。
マルコについて
実は、このマルコ、伝承ですが、この福音書の中で、イエス様がゲッセマネの園で逮捕された時に「亜麻布を脱ぎ捨てて逃げた青年」として登場します。また、使徒の働きでは、使徒パウロから、“伝道旅行を途中で投げ出して家に帰ってしまった者”と非難されているので、弱虫のようなイメージが無いでしょうか。
使徒の働き12:12には「マルコと呼ばれるヨハネ」とあるので、元々のヘブル語名は「ヨハネ」です。「マルコ」とはギリシャ語の呼び名で“ハンマー”の意です。本当はゴツイ人物だったのかもしれません。 後に、ローマで獄中のパウロに仕え、そのパウロから「私の務めに役にたつ」と言われるほど信頼され、更にはペテロのローマでの伝道では通訳をし、ペテロからは「私の子マルコ」と言われるまでに成長しています。その後はエジプトで伝道し、そこで殉教しています(マルコ行伝(外典))。このマルコの宣教で多くの人が救われ、現在イスラム教の国となっているエジプトで、その末裔のクリスチャン(コプト正教)が800万人いるのです。弱虫どころか、12使徒に勝るとも劣らない偉大な弟子なのです。話を福音書にもどします。
先遣者バプテスマのヨハネの道備え
マルコの福音書1:2-8
1:2 預言者イザヤの書にこのように書かれている。「見よ。わたしは、わたしの使いをあなたの前に遣わす。彼はあなたの道を備える。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意せよ。主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。
1:5 ユダヤ地方の全域とエルサレムの住民はみな、ヨハネのもとにやって来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。
1:6 ヨハネはらくだの毛の衣を着て、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。
1:7 ヨハネはこう宣べ伝えた。「私よりも力のある方が私の後に来られます。私には、かがんでその方の履き物のひもを解く資格もありません。
1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、この方は聖霊によってバプテスマをお授けになります。」
キリストが現れる時には、その前に露払いをする先遣者が現れると旧約聖書(イザヤ書)に預言されていましたが、そのとおりにバプテスマのヨハネが現れました。彼はらくだの毛の衣を着て、腰に皮の帯を締めていますが、旧約聖書を知るユダヤ人なら、預言者エリヤのような人が現れたと思ったことでしょう。マラキ書には、メシア(キリスト)が現れる前には預言者エリヤが遣わされると預言されていました。
マラキ書4:5
4:5 見よ。わたしは、【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。
4:6 彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、この地を聖絶の物として打ち滅ぼすことのないようにするためである。」
エリヤは旧約聖書の代表的な預言者です。神から離れ、神ではない偶像礼拝に走る民を、生ける真の神に立ち返るよう導いた偉大な預言者です。バプテスマのヨハネはエリヤの霊を帯びて、人々を悔い改めに導きました。まもなくメシア(キリスト)がくる。その方に比べたら、私などは奴隷の仕事(履き物のひもを解くお世話)をする価値もないくらいですと告白しています。その方は偉大なお方で、聖霊によってバプテスマを授ける、つまり罪の赦しとそれに伴う永遠のいのちを授けてくださるキリスト(メシア)なのだと。ですから、その方が来る前に神から離れていたことを悔い改め、神であるメシア(キリスト)を受け入れる準備をしなさいと、人々を導いています。主の道備えです。
イエス様の宣教準備
イエス様ご自身も宣教活動を始めるにあたり、「受難のメシア」としての備えをされます。「多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるメシア」であることを示すためです。
マルコの福音書1:9-13
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
1:10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
1:11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。
イエス様は先ず、ヨハネから洗礼を受けます。罪の無い聖なる方が、罪のきよめのバプテスマを受けました。これは私たち信仰者への模範を示すためと思われますが、後に十字架で神にささげられる「きよめられた小羊」を表しているのではないでしょうか。ヨハネは、イエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネの福音書1:29)と宣言し、「・・・私が来て水でバプテスマを授けているのは、この方がイスラエルに明らかにされるためです。」(ヨハネの福音書1:30)と証ししています。イエス様は贖いの小羊であることを世に示すために、洗礼を受けられたのです。
洗礼の後、天が裂けて聖霊が降ります。ただ聖霊が鳩のようにふわふわ降ったのではありません。天が裂けたのです。この「裂けた」という言葉は、イエス様が十字架で息を引き取った時、大地震が起こり、厚みが数センチもある神殿の垂れ幕が上から裂けましたが、その時と同じ言葉です。天がバリバリと裂けたのです。
そして、天から父なる神の声がして、イエス様が神の御子であると証しされました。その声は、出エジプトした民にシナイ山で主が語ったように、大きな轟のようだったと思います。
その後御霊がイエス様を荒野に追いやられます。ここに父、子、聖霊なる三位一体の神が表されています。
イエス様は荒野でサタンの試み、誘惑を受けますが、その誘惑は2つや3つではありません。あらゆる誘惑を受けた(ルカ4:13)のです。私たちの先祖アダムがただ一つの誘惑に負けて、人類は罪ある者となってしまいましたが、人類すべての罪を贖うためにこの地にこられたイエス様は、サタンからあらゆる誘惑を受け、それを全てはねのけて、罪の無い方であることを証しされたのです。罪の無い方だけが、罪を贖うことができるからです。
2.ついに満ちた神の時
物理的な意味
中東の地域は、アジア、ヨーロッパ、アフリカの3大陸の接点です。そのため、世界征服を狙う様々な大国に支配されてきました。ダビデ、ソロモンによるイスラエル王国の後は、アッシリア、エジプト、バビロン、ペルシャ、ギリシャ(アレキサンダー大王とその後継者)と大国が入れ替わり支配してきました。
しかし、ここにきて、ローマ帝国の支配のもと、“パックスロマーナ(ローマの平和)”と呼ばれる歴史上まれに見る平和な時代がきます。ローマ軍は工兵隊でもあったので、征服した地に土木工事をします。橋を架け、道路を整備し、“すべての道はローマに通じる”といわれるようになりました。その結果、人の行き来や物流が活発になりました。
また、ギリシャ語が公用語となり、様々な民族の交流が可能になりました。これは、離散の地にいて様々な言葉を使うイスラエルの民へ福音が伝わること、と同時に、異邦人にも福音が伝わることを意味します。つまり、福音が世界に伝わるための環境が整ったのです。
霊的な意味
預言者マラキの後およそ400年間預言者が出ませんでした。神のことばを宣べ伝える者がおらず、イスラエルの民は霊的に飢え渇いていたでしょう。
マラキの最後の預言は、「主が来られる前にエリヤが遣わされ、彼は民が悔い改めて神に立ちかえるように導く」というものでした。民は、エリヤが来るのを、そして、メシアである主が来られるのを待っていたのです。
このような時に荒野にバプテスマのヨハネが現れ、人々を水の洗礼によって悔い改めに導きました。メシアが来る。神の国が間近に迫っている。食い改めて神に立ちかえれと、主の道備えがされたのです。
こうして、物理的にも、霊的にも、メシアがおいでになる“時”が整いました。“時が満ち”たのです。
伝道者の書3:1
すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。
弟子の召命
イエス様は当初ユダの地で福音宣教を始められましたが、バプテスマのヨハネが捕らえられると、ガリラヤ地方に活動の場を移されました。そして、宣教活動と並行して、まず行ったのが弟子を作ることでした。ガリラヤ湖のほとりでは、後にペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレに声をかけました。
マルコの福音書1:17
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
これは一緒に宣教の働きをする者を募っているのではありません。いわば召集です。召集と聞くと、ネガティブな印象を持つ方もいるかもしれませんが、イエス様は権威を持って彼らを呼ばれました。そして、ただ強制するのではなく、“人間をとる漁師にしてあげよう”と将来のビジョンも預言されています。権威ある方に直接語られて、彼らは即座に(すぐに網を捨てて)イエス様についていきました。
実はここには伏線があります。ヨハネの福音書を見ると、少し前のユダの地での話ですが、アンデレは既にバプテスマのヨハネの弟子になっていました。ヨハネがイエス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」と紹介すると、アンデレはイエス様について行ったのでした。そしてイエス様と話をして、イエス様がメシアであると確信したアンデレは、ペテロを連れて来てイエス様に紹介しました。アンデレもペテロもメシアを待ち望んでいたようです。するとイエス様は、初対面のペテロを見て「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファ(言い換えれば、ペテロ『“岩”の意』)と呼ばれます。」と預言されたのでした(ヨハネの福音書1:42)。この時から、ペテロは、漁師をしながら、イエス様の宣教活動に賛同していたのでしょう。
この後、ガリラヤ湖に来たイエス様は、ペテロとアンデレを湖畔で見て、弟子に召したのでした。ペテロはこの時既に結婚していましたが(この後、姑の話が出てくるので)、仕事や家族を脇に置いて、イエス様の召しに応答しています。ペテロにも“時”が満ちたのです。
3.間近に迫った神の国
「神の国が近づいた」とは
イエス様が宣べ伝えたのは、神の国(御国)の福音です。
マルコの福音書1:15
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
「神の国が近づいた」とはどういうことでしょうか。今まさに出現しようとしている、ということです。イエス様が来られたことで、イエス様の語る言葉によって、行われる御業によって、神の国がその場に現われようとしているということです。神の国は聖なる方、神が治める、聖なる国です。ですから本来なら罪ある汚れた者は入ることができません。しかし、その聖なる神の国が、メシアであるイエス様によって、今この地に現れようとしている。だから、その神の国に入るために、神から離れていたことを悔い改めて、神に立ち返りなさいと。
権威ある新しい教え
イエス様は弟子たちを伴って会堂に入り、権威を持って(権威ある者として)教えらえました。安息日にはラビや律法学者が会堂で御言葉を教えるのですが、イエス様は他のラビたちとは教え方が全く違っていたようです。権威ある者としてとは、どのように教えられたのでしょうか。ルカの福音書にナザレの会堂での場面が具体的に書かれています。 (参照:「ナザレの民のつまずき」)
ルカの福音書4:16-21
4:16 それからイエスはご自分が育ったナザレに行き、いつもしているとおり安息日に会堂に入り、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その巻物を開いて、こう書いてある箇所に目を留められた。
4:18 「主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし、
4:19 主の恵みの年を告げるために。」
4:20 イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。会堂にいた皆の目はイエスに注がれていた。
4:21 イエスは人々に向かって話し始められた。「あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」
18節から19節のことばは、解放者であり、癒し主であり、贖い主であるメシアの姿です。そのことばを朗読した後、目の前にいる人たちに、今、それが実現したと宣言されたのです。律法学者らが行っていたような聖書の単なる解説ではありません。預言者によって語られた約束のメシアが今目の前にいるとの宣言です。そして、その言葉のとおりに悪霊につかれた人から悪霊を追い出し、病を癒し、ご自身がメシアであると証しされたのでした。
汚れた霊(悪霊)が震え上がる権威
人々がこの方はいったいどういう方なのかといぶかっていると、汚れた霊につかれた人が会堂にいて叫びました。
マルコの福音書1:24-26
1:24「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか。私はあなたがどなたなのか知っています。神の聖者です。」
1:25 イエスは彼を叱って、「黙れ。この人から出て行け」と言われた。
1:26 すると、汚れた霊はその人を引きつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
イエス様を前に、悪霊たちは震え上がっています。悪霊たちは、イエス様がやがて来られる裁き主であり、神に敵対するものを滅ぼすお方であることを知っているのです。イエス様は神の国、御国をもたらすためにこの地にこられたので、悪霊たちは、裁きの日が来たと、恐れおののいているのです。
神の国はメシアが治める国
イエス様は、神の権威でその人から汚れた霊を追い出しました。更に、多くの人の病を癒され、悪霊を追い出されました。神の国は、メシアが治める国です。悪霊のいない、悪や病気や苦しみの無い国です。イエス様ご自身がおられるそのところに神の国を実現されますが、そのことを人々に分からせるために、悪霊を追い出し、病を癒されたのです。人々に、実をもって、神の国の祝福に与らせたのです。
この神の国に入るには、神から離れていたことを悔い改め、神に立ちかえり、神が遣わした神の御子イエス様をメシアとして受け入れることでした。この福音宣教がついに始まったのです。
福音宣教が始まった
冒頭の1:1「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」の一文は、神の子であり、キリストであるイエス様による神の国の福音宣教がついに始まったという、マルコの命がけの宣言ではないかと書きました。
時が満ちて、人々が待ちに待ったメシアがついに来た。そして、メシアによって神の国が現れようとしている。この良き知らせ、福音の宣教が始まった、と。
この神の国の福音宣教は、人々が何かをしたから始まったのではありません。神様のご計画の中で、時が満ちて(環境が整い)、まさにこの時に、神様のほうから始められたのです。バプテスマのヨハネが道備えをし、イエス様が御業をもって始められました。
結び.今はどのような時か
今回はマルコの福音書の冒頭の部分から、イエス様が福音宣教を始めた“時”について分かち合いました。
イエス様は「時が満ち」て、宣教を始められました。神様のご計画の中で「時が満ち」たからです。伝道者の書の御言葉にあるように、何をするにも時がありますが、それは私たちにとっても言えることです。私たち一人ひとりには神様から与えられたご計画があります。もし、何かしようとしていて、まだ、踏み出せないでいることがあるなら、今がどのような時か、時が満ちているのかどうか、主に祈り、求めていきましょう。共におられる主が導いてくださいます。
また、「時」と言えば、イエス様が「時が満ちて」宣教を始められたように、世の終わり、イエス様のご再臨にも「時」が定められています。イエス様は、マルコ13章で、世の終わりが来る前のしるし(前兆)についてお話されました。偽キリスト、偽預言者が現れ人々を惑わし、戦争や戦争のうわさ、民族紛争、地震、飢饉がおこり、人々の愛が冷める。そして、太陽は暗くなり、星は天から落ち、これまで経験したことのない苦難が起こると。そして、「これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」(マルコ13:29)と言われました。
(参照:「再臨と終末(6)イエス様の終末預言 私たちはどこにいるのか」)
今の社会情勢、世界情勢をみると、イエス様は、かなり戸口に近づいていると思わされます。しかし、このような時だからこそ、地に足をつけ、神の救いのご計画を正しく知り、この神の国(御国)の福音を人々に伝えていきましょう。神の国(御国)は、イエス様を信じるすべての人に備えられています。
マタイ25:34
それから王(イエス様)は右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世界の基が据えられたときから、あなたがたのために備えられていた御国を受け継ぎなさい。』
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