苦難の中で注がれる神の愛

礼拝メッセージ
ローマ帝国(コロセウム、皇帝、地図)
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新型コロナによって、これまであたり前と思っていたことができなくなりました。あたり前のように人と語り合い、あたりまえのように会食して親交を育み、当たり前のようにスポーツ、レジャー、旅行を楽しみリフレッシュしてきたことができなくなりました。人との交流、社会活動が制限され、忍耐を強いられています。しかし、この暗く、沈んだ社会の中にあって、ただ苦難を嘆くのではなく、クリスチャンであるからこそ、この苦難の中から見いだせる希望があります。

■聖書箇所:ローマ人への手紙 5章1節~8節

5:1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
5:2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

1.神との平和

直前の内容

5章は、「こうして」という言葉で始まります。文脈を確認すると、直前の4章では、父祖アブラハムが義と認められたのが、律法による割礼を受ける前であり、行いによるのではなく神の約束を信じる信仰によってであること、そして、その義は私たちのためでもあると書かれています。

ローマ4:23-25
4:23 しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。
4:25 主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。

イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架に掛かり、命を捧げられたこと(死刑)、そして、よみがえられたこと、このことを信じることで、私たちは義と認められるのです。イエス様がよみがえったことは、その刑罰(死刑)が完了したことであり、イエス様を信じる私たちも刑罰が完了し、無罪となったこと、つまり義と認められることを表しています。こうして5章に入ります。

ローマ 5:1
こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、神との平和をもっているのです。

 神との平和とは

神との平和とはどのようなものなのでしょうか。平和と訳されていることば、ヘブル語では“シャローム”です。このことばは、とても広い意味を持っています。単に争いが無い状態だけではなく、力と命にあふれた状態を言います。平和であり、平安であり、繁栄、健康、満ち足りた状態、知恵、救い、勝利といった意味も含んでいます。神との平和とは、このような祝福の中にいることを意味します。エデンの園で、アダムとエバがまだ罪を犯す前の、平和で満ち足りた状態と同じです。

因みに、この“シャローム”という言葉は、イスラエルでは、「おはよう」や「こんにちは」、また別れの挨拶として使われます。“シャローム”と挨拶することは、「豊かで溢れるほどの祝福がありますように」と相手を祝福することなのです。

平和の反対

逆を考えると、「神との平和」の反対は「神との敵対」です。このローマ人への手紙を書いたパウロは、キリストに出会う前は、厳格なユダヤ教徒、パリサイ人であり、律法に熱心なあまり、キリスト者を激しく迫害する者でした。キリスト者を迫害するということは、「この最も小さい者たちの一人を迫害することは、イエス様ご自身を迫害すること」(マタイ25:45)であり、神に敵対することでした。使徒の働き26:14で、神に敵対することは“とげのついた棒を蹴ること”だとパウロ(ヘブル名はサウロ)は証ししています。

使徒の働き26:14
私たちはみな地に倒れましたが、そのとき私は、ヘブル語で自分に語りかける声を聞きました。『サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。』

とげのついた棒とは、牛などの家畜を追い立てる時などに使う、棒に金属の刺や釘を打ち込んだものです。神に敵対することは、その金属の刺を蹴ること、自分自身を傷つけることを意味します。

神の栄光にあずかる望み

5:2では、信仰によって、今立っているこの恵み(神からの一方的な救い)の中に導き入れられたとあり、更にそれによって、神の栄光にあずかる望み喜んでいる、となっています。この「喜ぶ」という言葉は別訳では、「誇りとしている」と訳されています。喜びとし、誇りとする「神の栄光にあずかる望み」とは、どのようなものなのでしょうか。

ヨハネの手紙には、将来、イエス様が再臨された時に、「神の栄光にあずかる」こととして、私たちが、「キリストに似た者になる」と書かれています。

Ⅰヨハネの手紙 3:2
3:2 愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。

更に、ピリピ人への手紙には、更に具体的な姿が書かれています。

ピリピ人への手紙 3:20-21
3:20 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。

イエス様が再臨される時には、私たちは体も贖われて、救いが完成します。イエス様に似た者、イエス様と同じ栄光の体、朽ちない永遠の体が与えられ、肉体をもって永遠の命へ入るのです。神の栄光にあずかるとは、まさに救いの完成であり、この望みが私たちに与えられているのです。これはイエス様を信じる信仰によって、神から義と認められ、神との平和を持っている者だけに与えられる恵みです。なんと喜ばしく、誇りとすべきことでしょうか。

2.忍耐が生み出す練られた品性 

苦難の意味

5:3では、「神の栄光にあずかる望み」を喜ぶだけでなく、苦難さえも喜んでいるとあります。

苦難を進んで受けたいを思う人はいないでしょう。信仰をもって、クリスチャンになっても、この世では苦難や患難はあります。なんでこんなことが私に起こるのだと心の葛藤を覚えることもあります。しかし、クリスチャンと神を信じない人では、苦難の意味が全く違います。

神を信じない人にとっては、苦難は災いです。苦難に遭うと、原因となったものを探して怒ったり、自暴自棄になったり、或いは絶望したり、現実から逃避したりします。苦難を否定的にとらえるからです。しかしクリスチャンにとっては、意味が全く違うと、聖書は言います。

ローマ 5:3-4
5:3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

苦難は単に苦難だけで終わるものではなく、忍耐を生み出すためのものであると肯定的にとらえます。苦難は歓迎したくないものですが、忍耐を生み出し、忍耐を育むために必要なものなのです。

私たちは、普段の生活で大きな重圧を受けています。これは精神的な話ではなく、物理的な話です。体にとっては、重力(万有引力)、大気圧というとてつもない重圧(苦難)を24時間受け続けています。しかし、その重圧を常に受けているおかげで、実感できないかもしれませんが、骨や筋肉が育まれて、立ったり、歩いたり、走ったりと、活動的な肉体を維持しています。長期間宇宙ステーションで過ごした宇宙飛行士たち、彼らはトレーニングによって頑強な肉体を持っていますが、彼らは地球に帰還したとき、一人で立っていることさえできません。長期間無重力の世界にいたことで、重力に体が適用できなくなったからです。

このように、重力(苦難)はある意味、私たちの体力を強め、肉体の維持、成長に必要なものであることが分かります。この苦難を受け止める時、忍耐が生み出されるのです。

耐えられる苦難・試練

人はそれぞれ個性があり、体力、精神力が違うように、一人ひとりに応じて耐えられる苦難・試練のレベルは違いますが、憐れみ深い神は私たち一人ひとりの力量に応じて、苦難・試練を赦されます。

Ⅰコリント人への手紙 10:13
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

最近、著名なアスリートたちが、「耐えられない試練はない」、「乗り越えられない試練はない」と発言するのを何度か聞きました。オリンピック水泳女子の池江選手。日本の、いや世界のトップスイマーですが、オリンピック直前で白血病を発症し、一時競技から離れました。その時のインタビューでこの言葉が語られました。その後、見事に回復、復活し、オリンピックに出場しただけでなく、好成績を上げました。フィギュアスケートの世界王者羽生選手。彼も先のオリンピックの直前に足首に大けがを負い、オリンピック出場が危ぶまれましたが、やはりこの言葉を口にしました。驚異的な回復でオリンピックに出場しましたが、完治とは言い難い状況で、痛みに耐えての出場でした。しかし、見事金メダル、オリンピック連覇を果たしました。池江選手にしても、羽生選手にしても、大舞台が目前に迫っている状況での病、怪我でした。アスリートにとって、普通なら絶望してしまうような状況だと思います。しかし、彼らは、「なんでこんなことが」と不運を嘆くのではなく、「耐えられない試練はない」と告白したのです。彼らがどのような信仰を持っているかはわかりませんが、御言葉の通り、試練に押しつぶされることなく、かえって試練を受け止め、試練に耐え、逆境を跳ね返しました。

試練を経た信仰

私たちにも様々な試練がありますが、私たちが経験している試練は耐えられないものではありません。その時には苦しいものですが、神は真実な方ですから、必ず耐える力を与えてくださり、後になれば、その試練が信仰を成長させてくれるものであったことが分かります。

苦難、試練に遭うごとに私たちは耐える力が増し加えられていきます。アスリートが日々のトレーニングで体に負荷をかけて筋力、技量を向上させていくように、私たちも、試練を耐えることで品性を育み、信仰を成長させていくことができます。

ただ、ここで気に留めるべきことがあります。それは、苦難、試練を経ることで強められるのは、純粋な信仰だけではないということです。私たちには、先祖アダムからの罪性(原罪)があるので、苦難、試練を乗り越えた時に、高揚感、達成感とともに、勝利に酔いしおれ、自分を誇る心、自慢、虚栄心、高ぶりが沸き上がってきます。自分の栄光です。人からの賞賛を受けようと、自分の栄光、誉れを追い求めてしまいます。サタンの罠です。

箴言 16:18
高慢は破滅に先立ち、高ぶった霊は挫折に先立つ。

しかし、神が喜ばれるのは、へりくだった心、砕かれた魂。自分の栄光を求めるのではなく、神に栄光を帰すこと。すべては神の御手の中で行われていることを認め、神に感謝をささげることです。

詩篇 51:17
神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よあなたはそれを蔑まれません。

私たちは、苦難・試練を通して、強められるとともに、高慢という不純物を取り除き、常にへりくだり、きよめられなければなりません。

Ⅰペテロの手紙 1:7
試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。

救いのプロセス

このように、苦難⇒忍耐⇒品性というプロセスは、私たちクリスチャンにとって、信仰を成長させるために必要なプロセスであることがわかります。私たちは、イエス様を救い主として信じた時、罪が赦されて、神の目には義とされました。神学用語で「義認」といいます。救いの始めです。イエス様を信じて、洗礼を受けて、それで一丁上がり、完了ではありません。ここから救いの完成に向けての成長が始まるのです(詳しくはこちら)。

その後、日々の生活の中で、様々な苦難を通して忍耐が生まれ、品性が練られていきます。そして、少しずつ、イエス様へ似た者へと変えられていきます。この清められ、成長していく過程を「聖化」と言います。私たちの信仰生活は、まさにこの聖化の歩みなのです。

そして、やがてイエス様がまたこの地においでになる(再臨)その時、今のこの卑しい体が贖われ、イエス様と同じ栄光の体、朽ちない体に復活するのです。これを「栄化」と言います。先ほどのピリピ3:20-21のとおりです。ここでようやく救いが完成します。

イエス様を信じて義と認められ(義認)、苦難の中で品性が清められ(聖化)、主イエスの再臨の時に復活し、栄光の体に変えられて(栄化)、霊肉ともに聖なる神の子とされて、キリストが統治する永遠の御国に入ります。これが私たち信仰者に与えられている約束です。

3.私たちに注がれている神の愛

練られた品性が生み出す希望

5:4-5では、練られた品性が希望を生み出す、と書かれています。

ローマ 5:4
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。

練られた品性が生み出す希望とは、どのようなものでしょうか。
文脈から思い浮かぶのは、苦難・試練からの脱出であり、その後に与えられる勝利の栄冠のことがあげられます。病気や怪我をしたアスリートが、辛いリハビリと過酷なトレーニングに耐えて回復をめざすのも、勝利の栄冠を獲得するという目標、希望があるからです。この勝利は目に見える栄誉として、メディアによって多くに人に知らされます。とても素晴らしいことですが、あくまで一時のものです。時間が経つと忘れられてしまいます。その後、場合によっては、燃え尽き症候群になる人もいます。体力、技量のピークを越え、次の目標、希望が見つからない時にこのことが起こります。

しかし、聖書には、一時のものではなく、いつまでも残る、永遠に続く希望が書かれています。先のⅠペテロの手紙を見ると、試練で試された信仰は、それ自体が火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価なものであると書かれています。目に見える金より高価で、キリスト・イエスが現れる時に称賛と栄光と誉れをもたらすというのです。金メダルなどの人からの称賛は、目に見えるものですが、一時のことで、やがて忘れ去られてしまいます。しかし、練られた信仰がもたらす希望、言い換えれば、聖化の歩みによって変えられた品性(練られた品性)がもたらす希望は、キリストが現れる時にもたらされる神からの称賛と栄光と誉れ、つまり、栄化のことだとわかります。主の再臨の時に実現する救いの完成のことで、永遠に続く

必ず実現される希望

そして、この希望は、失望に終わることがないと書かれています。

ローマ:5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

失望に終わらないとは、言い換えれば、必ず実現するということです。私たちに与えられた聖霊がその証しであり、聖霊によって、神の愛が注がれていることが分かるからです。神は私たちを愛するゆえに、必ずこの希望を実現されます。

聖霊は、私たちがイエス様を救い主として信じた時に与えられました。イエス様を救い主として信じた理由や経緯は人それぞれ違いますが、聖霊によらなければイエス様を救い主と告白することはできないからです。

Ⅰコリント 12:3
ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。

聖霊は、神の御霊であり、イエス・キリストの聖なる霊です。また、真理の御霊、助け主(パラクレイトス(ギリシャ語)ヨハネ14:16-17)として、私たちの内に住んでくださっています。そして、礼拝ごとに使徒信条で告白しているように、私たちに、創造主なる神を教え、キリストなる御子イエスを教え、神の救いのご計画(キリストの十字架と復活を信じる信仰によって与えられる体のよみがえりと永遠の命)を教え、御言葉の理解を助けてくださるのです。
ですから、逆に言えば、聖霊をいただいていることは、私たちが救いに与っていることの証しです。

エペソ1:13-14
1:13 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです。

キリストを信じる信仰によって、私たちは聖書に約束された聖霊が与えられました。この聖霊が救いの証印、保証なのです。聖霊の助けによって私たちは、品性が練られ、キリストに似た者へと変えられ、やがて主の日に神の栄誉に与るようにと導かれるのです。

前もって明らかにされた神の愛

また、聖霊によって、神の愛が注がれていることがわかりますが、この神の愛は、私たちが、何か良いことをしたから、何か犠牲を払ったから注がれているのではありません。

ローマ 5:6-8
5:6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
5:7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
5:8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。

私たちが弱かったころとは、罪人であったときと同じです。イエス様を救い主として受け入れる前のことです。不敬虔な者たちとは、信仰を持つ前の者たちのことです。

私たちが神から離れ、自分勝手な道を歩んでいたときに、そんな私たちのために、キリストは十字架にかかって死んでくださったのです。神は、私たちが正しいことをしたから救うのではありません。それどころか、神に逆らって、神に背を向けていたのに、そんな私たちを救うために、キリストは定められた時に、定められた場所エルサレムで、定められた十字架という方法で死んでくださったのです。それが神のご計画でした。罪人であった私たちのために、御子の命を惜しまずに与えてくださった神の愛の現れでした。私たちではなく、神のほうが先に愛を示してくださったのです。

ヨハネの福音書 3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

結び:私たちは聖化の中

今日は、ローマ人への手紙5:1-8を通して、パウロが伝えた福音の中心を分かち合いました。救いの全貌です。

私たちは、イエス様を救い主として信じる信仰によって、義と認められ、救われました。私たちが何か良いことをしたから救われたのではありません。神のほうが先に、私たちに御子の命というかけがえのない高価なものを犠牲にしてくださり、神から離れていた私たちのために、神のほうから先に愛を注がれたのです。私たちは、へりくだってその神の愛を受け止めるだけ、キリストの十字架という形で現わされた神の愛を受け止めるだけで救われたのです。

そして、救いに入れられた私たちには、やがて主イエスが再臨される時に、主イエスと同じ栄光の体、不死の体によみがえり(復活して)御国に入るという希望が与えられています。救いの完成です。主イエスを信じる者に与えられる神からの栄誉です。

今はその救いの完成に至る過程の中にいます。イエス様も言われたように、世にあっては苦難があります。しかし、聖化の過程にあることを悟り、将来の復活の希望が与えられていることを悟るなら、今の苦難を乗り越える力となります。

ローマ 8:18
今の時の苦難は、やがて私たちに掲示される栄光に比べれば、取るに足らないと私は考えます。

現実の生活の中では、様々な苦難があると思いますが、私たちクリスチャンが通る苦難は、単に苦難で終わるものではありません。忍耐を生み出し、品性が練られて、キリストへと似た者へと変えられるための試練であり、成長に必要な聖化のプロセスなのです。しかも、私たちには、聖霊なる神が内に住まわれ、共におられて、私たちを支え、導いてくだいます。神が私たちに愛を示されたように、私たちも神に対し心からの感謝と賛美をささげ、隣人に対しては、自分を愛するように愛を示していきましょう。

Ⅰテサロニケ人への手紙 5:14-18
5:14 兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠惰な者を諭し、小心な者を励まし、弱い者の世話をし、すべての人に対して寛容でありなさい。
5:15 だれも、悪に対して悪を返さないように気をつけ、互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うように努めなさい。
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

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