ささげ物は、神を礼拝する行為です。ささげ物には捧げる人の心が表されています。
ささげ物について最初に書かれている箇所は創世記4章です。カインとアベルの捧げ物から、神の喜ばれるささげ物とは何かについて考えてみましょう。
創世記4:1~7
人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
・カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来ました。大地の実りを主に捧げたのです。
・アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、自分自身で持って来ました。自分の所有物から、一番良いものを捧げたのです。
・主はアベルとそのささげ物とに目を留められましたが、カインとそのささげ物には目を留められませんでした。
なぜアベルのささげ物は神に受け入れられ、カインのささげ物は受け入れられなかったのでしょうか? それを知る前に、創世記3章でアダムとエバに何が起こったかを見てみましょう。
1アダムの罪の結果(創世記3:17~19)
① 禁断の実を食べたアダムとエバに起こった変化
アダムとエバは蛇(背後の悪魔)に騙され、神から食べてはいけないと戒められていた「善悪の知識の木」から実を取って食べてしまいました。すると二人の目が開かれたとあります。何に対して目が開かれたのでしょうか? 単に自分が裸であるとわかっただけではありません。
「善悪の知識の木」の実を食べるとは、神の善悪の基準によらず、自分が神のようになって自分で善悪の基準を定めるようになることを意味しています。蛇はその木の実を食べると、「あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる」と言って女をだましました(創世記3:5)。 この実を食べたことで、人は神から独立し、自分自身の判断・基準で生きるようになったのです。
「善悪の知識の木」の実を食べた後、アダムとエバはどんな行動を取ったでしょうか。
①自分たちの身体の違いに気がつき、恥ずかしさを覚え、いちじくの葉で自分の腰を覆い、隠しました。自分を隠すこと、自分の弱さや恥を隠し、取り繕うことに知恵を用いるようになりました。
②「食べてはいけない実を食べたのか」と神に問われた時、正直に罪を認めるのでなく、言い訳を考えました。アダムはエバのせい、エバは蛇のせいと責任転嫁し、言い逃れしようとしました。自分の罪を認めず、自己正当化するための理屈を考え、知恵を悪い方法で使うことを始めました。
「善悪の知識の木」つまり「知恵の木」の実を食べたので、神の善悪の基準によらず、自分の知恵を用いて、自分にとって都合の良い善悪を定めるようになったのです。
② 罪の結果と神のあわれみ
神は二人の罪に対し、厳しい宣告をくだされました。
創世記3:16~19
女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのうめきと苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
罪は、人に不幸な事態を引き起こしました。
① 土地が呪われ、いばらとあざみを生えさせるようになり、人は野の草を食べなければならなくなりました。食物を得るためには、額に汗を流し、一生、労苦しなければなりません。
② 人はちりから取られたので、死んで土(ちり)に帰らなければなりません。土地を耕し、土地から取れる産物を食べて生き、死んで土地の一部と帰すのです。
③ 女は苦しんで子供を産まなければなりません。
人は罪の結果、「労働の苦しみ」と「死」という2つの不幸を背負ってしまいました。そして、女には、「いのちを生み出すための苦しみ」が与えられたのです。いのちを与え、全ての良いものを備えて下さる神に反逆した結果、人が得たものは、いのちを生み出す苦しみ、生きるための苦しみ、そして死の苦しみでした。
最初に死をもたらしたのは神ご自身でした。自分たちの裸をいちじくの葉で覆ったアダムとエバのために、神は2匹の動物を殺して皮をはぎ、血の付いた毛皮で二人の裸を覆ってくださったのです。
世界が創られてから初めての「死」が実現し、アダムとエバは、死とはどのようなものかを知ることになりました。人の罪のために初めて動物が犠牲となりました。これは、人類を罪から贖ってくださる将来のメシアを予表していました。
アダムとエバの息子であるカインとアベルは、この出来事を両親から教えられていたことでしょう。
二人とも神にささげ物を持って来ましたが、ささげ物に対する二人の考え方と態度は異なっていました。
カインは、呪われた地から労働によって得た作物、つまり自分の「労苦の実」を捧げました。
アベルは、羊を殺して「いけにえ」を捧げました。つまり「いのち」を捧げたのです。
2 作物のささげ物が意味していたこと
① 神が本来願われていたこと
アダムが罪を犯す以前の世界はとても良い世界でした。エデンの園は水が豊かで、植物が茂り、食物が豊富で、そこには神と人との麗しい交わりがありました。人を襲うような猛獣はおらず、病気も死もない平和で祝福された世界でした。「エデン」は「楽しみ、喜び」という意味です。
神が人間のために備えて下さった食物は非常に良い物でした。人間は神が備えられた良いものを味わい、楽しみ、神に感謝し、神を喜ぶことができたのです。
けれども、アダムの罪のために地が呪われ、神からの良い物を受けることが難しくなりました。人がどれほど努力して素晴らしい作物を作り出しても、呪われた土地から生み出されたものは、エデンの園に神が供えられていた最高の食物には及ばなかったでしょう。
世界に存在する全てのものは神の物です。作物は、神が人の食物として与えたものです。神は、人が罪の無い状態で神からの賜物を享受し、感謝し、喜び、神と共に幸せに生きることを願われていたのです。罪を犯し、神との関係が壊れたままで、人が呪われた地から労苦して得たどんなに立派な作物を捧げても、神の喜ばれる礼拝にはならないのです。
② カインの意味
カインという名前は、エバが初めて子供を産み、「私は主によって一人の男子を得た(4:1)」と言ったことから付けられた名前で、「得た、勝ち取った」という意味があります。
アダムとエバが罪を犯した後、神が蛇に語られた言葉にこうでした。
創世記3:15
わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
女の子孫が蛇の頭を踏み砕く、つまり、やがてメシアが現れて悪魔を踏み砕くという預言です。エバは、罪のために受けなければならなかった産みの苦しみを経て、その子孫を得たと思ったことでしょう。カインという名前には、自分の苦しみが約束の子を生み出したと誇る思い、あるいは、自分の労苦が神の計画を前進させることができたという高ぶりが秘められていたのかもしれません。
③ カインの心の根底にあるもの
罪ゆえに神から離れて生きる人間は、神から受けられるはずだった良いもの、祝福、恵みを受けられなくなりました。ですから自力で勝ち取らなければならず、そこにプライドが存在します。
労苦して作った作物(働きの成果)を神に捧げたカインの心の奥底には、神に頼らず自分の力で成し遂げたと誇る気持ち、高ぶりが潜んでいたのかもしれません。
自分の働き・自分の努力で神に受け入れてもらおうとすることは、肉の思いから出た行為です。
全ての宗教は、人間が良いと思う方法で神に近づき、人間の努力や行いによって神に受け入れられようとします。お布施や献金、読経や御百度参りなど、行いによって罪を帳消しにしてもらい、自分の願望を叶えてもらおうとするのです。これはまさに、善悪の知識の木の実を食べた結果です。自分の方法で神に義とされ、自分の目的のために神を動かそうとするのです。
聖書は、全ての人は罪人であると教えています。罪を無視し、罪の問題が未解決のままで、人が善行・努力・業績を持って神に近づいても、神との関係が破壊されたままでは、神に受け入れられません。神に近づくためには、神の定められた方法があります。作物を捧げる前に、神との関係を回復しなければならないのです。作物のささげ物には神の恵みを感謝する心が込められていなければなりません。
3.羊の捧げものが意味していたこと
① 動物を殺して捧げるとは
アベルは、大切に可愛がって育てた、最良の肥えた羊の初子を捧げました。動物を捧げるとは、その動物を殺して、いのちを捧げることです。
動物は人の役に立つように、神が造られた存在です。ノアの洪水以前、動物は人の食物ではありませんでした。肉食獣は存在せず、人と動物は仲良く暮らしていたと思われます。愛らしい羊は人の心を和ませ、毛や乳を提供し、共に暮らす家族のような存在だったかもしれません。
アベルが大切に育てた最上の羊を自分の手で殺して神に捧げた時、どれ程心が痛んだことでしょう。かわいい声で鳴きながら自分の後をついて来た羊が息をしなくなり、からだは動かず、温もりが失われ、火で焼かれ、灰になるのです。大切な存在が失われた痛みと喪失感は大きいことでしょう。
一度失われたいのちを取り戻すことはできないのです。「死」の恐ろしさ、酷さ、命のはかなさ、存在が亡くなる虚しさ、全てを奪う死の無情さに打ちのめされたことでしょう。
罪ある人間も、神から与えられたいのちの息が取り去られるなら、羊のように死んでちりに帰ります。人間は神の似姿に作られ、エデンの園で神と親しく交わり、神の創られた世界を喜び、その祝福を堪能し、被造世界を治める使命を与えられていました。
けれどもアダムとエバの罪のために神との関係が壊れ、エデンの園を追い出され、人は生きている限り生活のために苦労し、いずれは死んでちりに帰らなければなりません。
いのちが失われる時、死をもたらす人間の罪の結果を見せつけられるのです。
② 神に喜ばれたアベルの心
いけにえを捧げることが神の命令であったかどうかは書かれていませんが、アベルは、神様が動物をほふられたように、自分の羊をほふって神にささげました。神の前に羊のいのちを指し出した時、アベルは両親の犯した罪の大きさと、死の悲惨さを痛感したことでしょう。自分たちのために動物が死んだことを実体験したアダムとエバのように、自分のために羊を殺したアベルも、死のもたらす悲惨さを実体験したことでしょう。
「アベル」の名前の意味は、「息、虚無、空虚、はかない」というものです。神によってひと時だけ生かされている、被造物に過ぎない人間。いのちの息が取り上げられたら死ななければならない、はかない存在。そのような意味が込められています。
アベルは羊のいのちを捧げた時、自分も罪ゆえに死ぬべき、はかない存在であることを認め、自分で自分の命を救うことのできない存在、神の恵みとあわれみによって生かされている存在として、すべての被造物にいのちを与える神の前に出たのではないでしょうか。
アベルは、自分の飼っている最上の羊を殺すという行為を通して神に近づきました。愛する対象、大切な存在を失うという痛み・悲しみを経てでも、神に近づくことを求めました。自分の感情や願望を優先させるのではなく、犠牲を払って神を愛することを選び、神の前に出たのです。
罪の恐ろしさ・深刻さ、死の悲惨さを思う時、罪人には神のあわれみを請うことしかできません。
創造主なる神の絶対性と人の罪深さを認め、全能の神の前でへりくだったアベルの心を、神は喜ばれたのではないでしょうか。
③ アベルの捧げものが予表していたもの
へブル人への手紙には、アベルのささげ物のことが書かれています。
ヘブル11:4
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
アベルが信仰によって捧げた最上の初子の羊は、作物よりもすぐれたいけにえ、良いささげ物でした。神はいけにえの羊によって、アベルを「義人=正しい人」と認めて下さったのです。
それは、将来の神の小羊を予表していたからかもしれません。アベルは十字架の計画を知らなかったでしょうが、アベルのささげ物は神の計画と一致し、神の心にかなっていたのではないでしょうか。
黙示録13:8
地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼(獣)を拝むようになる。
いのちの書は世の初めからあり、救われる人の名前は世の初めから書きこまれています。神が、罪を犯したアダムとエバの前で、「女の子孫がおまえの頭を踏み砕く」と蛇に向かって語られた時、神の小羊は神の計画の中ですでにほふられていました。小羊は世の初めからほふられていたのです。
神様がアダムとエバのために殺した動物は羊だったかもしれません。その動物は、やがて十字架に架かられる御子イエス様を予表していたのではないでしょうか。
アベルは信仰によって、カインよりもすぐれたいけにえをささげ、神に受け入れられました。そのいけにえを神は良いささげものと認めて下さったのです。
そして、羊を殺して捧げたアベルの痛み・悲しみには、愛するひとり子を十字架につける父なる神の痛み・悲しみと通じるものがあったのではないでしょうか。神を愛するゆえのアベルの犠牲には、父を愛するゆえに自ら命を捨てたキリストの犠牲に通じるものがあったのかもしれません。
④ 信仰によって義とされたアベル
アベルは信仰によって羊を捧げ、義とされました。アベルの信仰とはどんな信仰でしょうか。
へブル11:6
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
アベルは、神を求める者に報いてくださる神を信じました。アベルは、神がどのように報いてくださると信じたのでしょうか。
人は罪のためにエデンの園を追い出され、死ぬべきものとなり、人生に苦しみがもたらされました。アベルが信じた報いとは、蛇の頭を踏み砕く女の子孫によって、人が再びエデンの園に戻り、死と苦しみが取り除かれることではなかったでしょうか。
へブル人への手紙11章には、信仰の人々のことが書かれています。アベル、エノク、ノア、そしてアブラハム・イサク・ヤコブとその子孫たちについてです。
エノクは神に喜ばれ、死を見ることがないように移され(11:5)、ノアは信仰によって家族の救いのために箱舟を作り、信仰による義を相続する者となりました(11:7)。アブラハムとイスラエル民族は、将来神が義人を死から復活させ、「天の故郷、神が建設された都」を相続させてくださることを信じました(11;10、16、19)。
これらの信仰の人々は、罪を犯す前のアダムがエデンで神と共に過ごしたように、死からよみがえって神とともに永遠に生きることを願ったのです。それを実現してくださるのが「女の子孫」として来られたメシア・イエス様です。
アベルは、エデンで神と共に永遠に住まうことを願って、犠牲の羊を捧げたのではないでしょうか。
4.アベルの心で礼拝する
① パリサイ人と取税人の祈り
神から離れ、自分の力を誇り、自分勝手に生きていた私たちは、やがて死に、滅ぼされるべき存在でした。キリストの犠牲によって義とされた私たちが神に近づく態度とは、どうあるべきでしょうか。
イエス様は、自分を誇る人々を戒めるために、あるたとえ話をされました。
ルカ18:9~14
自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
・自分を誇り、取税人を見下げて祈ったパリサイ人は、行いによっては義と認められませんでした。
・自分の罪を認め、神のあわれみを求めて祈った取税人は義と認められました。
・自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
人は自分の何かを誇る心を持って神に近づいても、神に認められるわけではありません。献金、断食、奉仕で神に近づくことも、成し遂げた働きの成果を神の前に申し立て、これだけ祈ったから答えられるはずだ、これだけ捧げたから祝福されるはずだと、神に要求することもできません。肉を誇る心で捧げる祈りは、神に喜ばれる祈りではないのです。
ヤコブ4:6
神は高ぶる者を退け、へりくだるものに恵みをお授けになる。
自分の罪を悲しみ、神のあわれみを求めた取税人のへりくだった心は、神の御心にかなっていました。
神に反逆する罪を憎み、自分は神の前で誇ることが何もない弱い存在であり、自分で自分の罪を取り除き、自分を救うことができないと認め、神のあわれみにより頼む者に、神の恵みが注がれます。
② 感謝と賛美の捧げ物、信仰による祈り
父なる神様は、ご自分の御子を十字架に付けるほどに罪人を愛し、あわれみ、救いの道を開いてくださいました。この偉大な神様をほめたたえ、感謝します。
神から離れ、自分の力を誇り、自分勝手に生きていた私たちの罪の身代わりに、罪の無い御子イエス様が「神の小羊」として裁かれ、私たちを滅びから贖ってくださいました。私たちは義と認められ、新しいいのちが与えられ、神と共に生きる者とされました。誇るべきはただイエス様と十字架です。
主は復活され、今も生きておられます。やがて再臨され、私たちをも復活させ、死に勝利した神の子として、神と共に永遠に住まわせてくださいます。この神のご計画実現を信じ、期待して祈ります。
神の喜ばれる礼拝とは、霊とまことによる礼拝です。罪を告白し、感謝と賛美というくちびるの果実をささげ、神の栄光をたたえましょう。
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