1.イエス様の教えを理解するために
前回は、これまでこのブログで学んできた聖書の理解(よみと死者の状態、新しいエルサレム、再臨時のよみがえり)に照らし合わせて「ラザロと金持ち」を解釈しました。
そして、この物語の舞台は死人の住むよみの世界でも霊魂の世界でもないこと、これは復活して新しいエルサレムに入った人と、外に追い出された人についてのたとえ話であることを説明しました。
今回はまず、ルカの福音書12章から16章に記されている8つのたとえ話を学び、その全体を貫いているテーマに則して、「ラザロと金持ち」の内容と目的を考えます。そして最も自然で整合性のある解釈を考えます。
① たとえ話を解釈するための大切な前提
・たとえ話を単独で解釈するのではなく、どんな文脈、どんな状況で、誰に対して、どんな目的で語られているか、文脈全体の中で位置づけ、全体のテーマと調和する解釈をします。前後の文脈と無関係な解釈、矛盾する解釈は的外れです。
・たとえ話は、旧約聖書やイエス様の教えと一致しており、基になる教えを具体的・発展的に説明し、確認させるものであるはずです。 たとえ話から聖書で教えられていない新たな教理を導き出すなら、その解釈から異端化していく危険性があります。
この記事の目的は、神の御計画とイエス様の御心を明確に理解し、異教的な聖書解釈を取り除くことです。
② イエス様の教えの漸進性を理解する
たとえ話は、耳のある(聞き従う心がある)者だけが聞いて悟り、次の教えへと進むことができます。イエス様に聞き従う心の無い者は理解することができません。
一例として、天の御国の奥義についてのたとえ話(マタイ13:3~50)があります。
初めの「種まきのたとえ」が基本の教えとなり、そこで理解した知識から次の3つのたとえ話(良い麦と毒麦、からし種、パン種)に進みます。それらを理解したなら、そのうちの一つから次の3つのたとえ話(隠された宝を畑ごと買う人、良い真珠を買う商人、魚を集める網)へと発展し、奥義が解き明かされていきます。
初めの一つを理解していなければ、次のたとえ話も理解できず、最後まで到達することはできません。持っている者はさらに与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられます(13:12)。
『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。この民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。それは、彼らがその目で見、その耳で聞き、その心で悟って立ち返り、わたしにいやされることのないためである(13:14~15)。』
ですから、一つ一つの教えやたとえ話についての理解を積み重ね、全体から最後の物語の意味を読み解く必要があるのです。
「ラザロと金持ち」のたとえ話の本当の意味を理解するためには、12章のイエス様の基本の教えから初めて、たとえ話を通して展開されていくテーマについて理解を増し加えていくことが必要です。12章に2つ、13章に1つ、14章に1つ、15章には3つ、16章に1つ、全部で8つのたとえ話があります。これらをセットで考えます。その展開の最終的なたとえ話として9番目に語られたのが、「ラザロと金持ち」です。
それでは、9番目のたとえ話を理解するために、まず8つのたとえ話から学んでいきましょう。
2.神の国を第一に求め、天に宝を積む
たとえ話① 愚かな金持ち(ルカ12:16~21)
イエス様はまず基本のたとえ話として、ある金持ちのたとえ話をします。
これは、遺産相続についてイエス様に介入を求めた人に、「人のいのちは財産にあるのではないから、どんな貪欲にも注意し、警戒するように」と戒めるために語られた物語です。
ある金持ちの畑が豊作でした。その人は倉を大きく建て直し、穀物、財産の全てを蓄え、これから先、何年分もの作物があるので、休んで、食べて、飲んで、楽しもうと考えます。しかし神は、「今夜お前のたましいは取り去られる」と言われます。
このたとえ話は、自分のために財産を蓄えても、神に対して富まない者の愚かさを教えています。
イエス様は、天の父は喜んで御国をお与えになるので、神の国を求めるなら必要は加えて与えられるから、何を着るか何を食べるかと心配しないように言われました。また、自分の財産を売って施しに用い、天に尽きることのない宝を積み、神の国をいつも心に留め、神の御心を実践するように教えられました(12:31~34)。
この教えから神の国を受け継ぐことに関する7つのたとえ話が始まります。
3.神の国を受け継ぐ人と追い出される人
たとえ話② 主人の帰宅としもべの受ける報い(ルカ12:35~48)
このたとえ話は、主人の帰りを待つしもべの報酬について教えています(12:35~48)。
・腰に帯を締め、明かりをともし、目を覚まして主人の帰りを待っていた忠実なしもべに対し、帰って来た主人は、しもべを食卓に着かせ、そばにいて給仕してくれます。
・家のしもべたちを任され、きちんと食事を与える忠実な賢い管理人は、主人が返って来てから全財産を任されるようになります。
・主人の帰りは遅くなると思い、男女の召使を打ちたたき、食べたり飲んだり、酔ったりしていた悪いしもべは、厳しく罰せられ、不忠実な者と同じ目にあわされます。
・主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。知らずにいて、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても少しで済みます。
しもべたちはそれぞれの行いに応じて、主人から報いを受けます。主人が帰って来るとは、人の子が来ること、つまりイエス様の再臨を表しています。イエス様はこのたとえ話を通して、ご自分が再臨された時、ひとりひとりに報いを与えると教えておられます。
イエス様は最後に、「主人がいつ帰って来ても良いように用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのですから」と忠告されました。
似たようなたとえ話に「タラントのたとえ」があります(マタイ25:14~30)。この物語では、良い忠実なしもべは主人からたくさんの物を任され、役に立たないしもべは外に追い出されてしまいます。
マタイ25:21、30
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」・・・「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」マタイ16:27
人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。
復活して天に帰られたイエス様は、パトモス島で使徒ヨハネに幻で現れ、このように語られました。
黙示録22:12
見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。
イエス様は思いがけない時に戻って来られ、各人の行いに応じて報いをされます。
たとえ話③ 神の国で食卓に着く人、外に投げ出される人(ルカ13:24~30)
ルカ13章では、「救われる者は少ないのですか」という質問に対し、イエス様は言われました。
ルカ13:24~25
「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。家の主人が、立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない』と答えるでしょう。」
救われることは狭い門から入ることにたとえられています。
ルカ13:26~30
すると、あなたがたは、こう言い始めるでしょう。『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。』
だが、主人はこう言うでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』
神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。
いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」
たとえ話②では、主人が帰宅(イエス様が再臨)した時、忠実なしもべは食卓に着くことができました。
このたとえ話でも「家の主人」はイエス様、「家」は神の国を表しています。「救われる」とは「狭い門から神の国に入る」ことで、救われた人々はアブラハムと一緒に神の国の食卓に着きます。
イエス様が再臨され、神の国が始まります。復活したアブラハム・イサク・ヤコブ・預言者たちが神の国で食卓に着き、世界中の国々から義とされた異邦人も来て、イスラエルの父祖たちや預言者たちと一緒に食卓を囲みます。
一方、神の国の外に投げ出されて泣き叫び、歯ぎしりする人々がいます。メシアが来られることを知りながら、努力して狭い門から入ろうとしなかった人々、主の教えを聞いて知ってはいたが、それを守り行わず、不正を行っていた人々です。
イエス様が再臨された時、神の国でアブラハムと一緒に食卓に着く人と、外に投げ出されて泣き叫ぶ人がいることがわかります。
黙示録では、いのちの書に名前がないために新しいエルサレムの外に出される人々がいると教えられています。
黙示録21:24~27
諸国の民が、都の光によって歩み、地の王たちはその栄光を携えて都に来る。都の門は一日中決して閉じることがない。そこには夜がないからである。こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。黙示録22:14~15
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。
狭い門から入るとは具体的には都の門から入ることです。
救われた人々(いのちの書に名が書いてある者)は、真珠の門を通って都(=新しいエルサレム)に入り、食卓に着いていのちの木の実を食べることができます。
そしてイエス様は、「今しんがりの者が先頭になり、いま先頭の者がしんがりになる」と付け加え(ルカ13:30)、パリサイ人にはこう言われました。
ルカ13:35
「あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」
『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』というのは、イスラエル民族がメシアをエルサレム神殿にお迎えするときに語る言葉です。
パリサイ人はイエス様のなさったしるしを見ても、イエス様をメシアとして受け入れず、悪霊付きと非難しました。またパリサイ人たち、祭司長たち、長老たちは、妬みによって無実のイエス様をローマ兵に引き渡して十字架で殺させました。さらに、祭司長たちと長老たちは、復活を目撃した番兵たちに金を与え、偽りの証言を言い広めさせ、復活の事実を否定させました。
彼らは、『私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました』と言うでしょう。その時イエス様はこう言われるでしょう。『私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行う者たち。みな出て行きなさい。』(13:26~27)
イエス様を神の国の王として歓迎しない限り、神の国に入ることができません。不正(不義)を行う者(ルカ13:27)、役に立たないしもべ(マタイ25:30)は、神の国の外に投げ出され、泣いて歯ぎしりすることになるのです。
神の国に入る門は狭く、入る人はわずかです。このたとえ話は、イエス様が再臨されて神の国が始まった時、アブラハムと一緒に神の国の食卓に着く人と、神の国から締め出されてしまう人がいることを教えています。
たとえ話④ 盛大な宴会の招待を断る人、招きを受けた人 (ルカ14:16~24)
14章でイエス様は、安息日に食事に招いてくれたパリサイ人に、「食事に招く時は、貧しい人、からだの不自由な人、盲人など、お返しのできない人を招きなさい。そうすれば義人の復活の時にお返しを受ける」と言われました(14:12~14)。
イエス様が再臨されると義人が復活します。神の御心に従って貧しい人や障害者に良くしてあげた人は、復活して神の国の食卓に招かれ、お返しを受けます。
すると、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言う人がいたので(14:15)、イエス様は次のたとえ話をされます(14:16~24)。
盛大な宴会に招かれていた人々が、宴会の時刻になってから次々に断り始めます。「畑を買ったのでお断りします」「牛を買ったのでお断りします」「結婚したので行けません」という理由でした。
怒った主人は、しもべを町に遣わし、招かれていなかった貧しい人、からだの不自由な人、盲人、歩けない人たちを連れて来させ(14:21)、さらに街道や垣根のところに行って人々を無理にでも連れて来させて(14:23)、家を一杯にします。そして「招待されていた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は、ひとりもいない」と言います。
家は神の国です。神の国の盛大な祝宴に招かれていたのに、入ろうとしない人がいます。
パリサイ人や律法学者たちは、民衆に律法を教え導く霊的リーダーとして、神の国に招かれていた人々でしたが、自分たちの言い伝えには熱心でも、社会的弱者に愛と哀れみを示さず、偽善的で本来の律法の実践を疎かにしていました。
彼らはイエス様を拒否して神の国を退けることになり、貧しい人、からだの不自由な人、盲人、取税人や罪人と蔑まれていた人たちの方が、先に悔い改めて神の国に入ることになりました。
「今しんがりの者が先頭になり、いま先頭の者がしんがりになる(13:30)」のです。
イスラエルの霊的指導者たちが神の国の招きを拒否し、社会的弱者や蔑まれていた人々が神の国の招きに応じるようになることが暗示されています。
12章では、イエス様が再臨された時、一人一人に報いが与えられること、13章では神の国の祝宴で食卓に着くことのできる人と外に追い出されてしまう人がいること、14章では、神の国の招待を拒否する人がいることが教えられています。
4.罪人の悔い改めを喜ばれる神
その後、パリサイ人や律法学者たちは、イエス様が取税人・罪人たちと一緒に食事をしていると批判します(15:2)。そこでイエス様は3つのたとえ話をして、神様は罪人の悔い改めを喜ばれることを教えられました。ここからは、悔い改めて神の国に入ることについての教えです。
たとえ話⑤ いなくなった1匹の羊を探し出し、大喜びする羊飼い(15:4~7)
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです(15:7)。」 イエス様は羊のために命を捨てて下さった良い牧者です。失われていた人が悔い改めたことを、イエス様は大変喜んでおられたのです。
たとえ話⑥ なくした1枚の銀貨を探し出して大喜びする女性(15:8~10)
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです(15:10)。」
たとえ話⑦ 帰ってきた放蕩息子のために祝宴を開いた父親(15:11~32)
父から相続財産を分けてもらった弟息子は、家を出て行き、財産を湯水のように使って、無一文になって戻ってきます。そして「私は天に対して罪を犯し、あなた(父)の前に罪を犯しました」と告白します(15:21)。
父親は息子の帰宅を喜び、一番良い服(相続人の身分)を着せ、靴を履かせ(しもべではなく子、自由)、指輪(実印を兼ねていた、権威)をはめ、肥えた子牛をほふって盛大な祝宴(父と子の和解)を開きます。
それを知った兄息子は、父親に腹を立てますが、父親は「弟息子は死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、食べて楽しむのは当然だ」と言います(15:24)。
父親は天の父、放蕩息子は取税人・罪人たちを象徴し、悔い改めた罪人が恵みによって義とされ神の子どもとされること表しています。父親と放蕩息子の祝宴に腹を立てた兄息子は、イエス様と取税人たちが食事を共にしていることを批判したパリサイ人の姿と重なります。
15章の3つのたとえ話では、父なる神様は悔い改めて戻って来た罪人を義と認めてくださることを教えています。イエス様が再臨されて始まる神の国とは、神と神の子どもたちとの喜びに満ちた盛大な祝宴なのです。
たとえ話⑧ 不正な管理人(16:1~13)
このたとえ話は、この世の富で永遠の住まいのために友を作ること、財産を正しく管理して天に宝を積むことを教えています。(詳細は「ラザロと金持ちのたとえ話①」)
不正を行っていた人に考え方と行動を変え、財産を神の御心にかなう方法で用い、悔い改めの実を結んで神の国に入るようにと勧めています。
このたとえ話は、12章の最初にあった「人のいのちは財産にあるのではない」「まず神の国を求めなさい」「財産を売って施しに用い、天に尽きることのない宝を積みなさい」という教えの実践編です。天の父は悔い改めた人に、喜んで御国をお与えになるのです。
5.8つのたとえ話と「ラザロと金持ち」の関連性
8つのたとえ話はすべて、神の国に入るための教えです。
① 神の前に富まない金持ちは愚かである。
② イエス様が再臨されたら、ひとりひとりの行いに応じて報いをされる。
③ 狭い門から神の国に入ってアブラハムと食卓に着く人と、外に投げ出される人がいる。
④ 神の国の招待を拒否する人がおり、貧しい民衆や罪人は招きに応じて神の国に入る。
⑤ いなくなった羊が見つかる(罪人が悔い改める)と天に喜びがある。
⑥ 失くした銀貨が見つかる(罪人が悔い改める)と御使いたちに喜びがある。
⑦ 放蕩息子(罪人)が悔い改めて戻って来ると、天の父が喜んで祝宴を開かれる。
⑧ 不正な管理人は他人の富を賢く用い、永遠の住まい(神の国)に備えた。
「ラザロと金持ち」は誰にどのような目的で語られたか
イエス様はこれらのたとえ話を通して、ご自分が再臨されたら一人一人の行いに応じて報いること、神の国でアブラハムと共に祝宴に与る人と外に出される人がいることを教えられました。
神の国は、悔い改めて戻って来た人々のために天の父が開かれる盛大な祝宴にたとえられています。そして、先に招かれていたパリサイ人はその盛大な宴会を断わり、パリサイ人が軽蔑していた取税人や罪人の方が悔い改めて神の国に入ることを暗示されました。
「ラザロと金持ち」は、モーセと預言者を信じないパリサイ人たちに語られた預言的なたとえ話です。金を愛し富に仕え、神の律法と預言を退ける者は、救い主を拒絶し、救われることがないと警告していたのです。(参照:「ラザロと金持ちのたとえ話①」)
イエス様はこのたとえ話をされる直前に、「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています(16:16)」と言われ、民衆がイエス様を預言されていたメシアと信じ、神の国に入ろうとしていると示されました。
パリサイ人や律法学者たちは、旧約聖書の御言葉をよく知り、それを民衆に教える霊的指導者の立場にありながら、実はモーセと預言者の教えを信じていませんでした。それで、実際にメシアであるイエス様が来られて、メシアにしかできない多くのしるし・奇跡をなさったにもかかわらず、イエス様を拒絶した(ルカ11:14)のです。彼らは自分が神の国(神が治める王国)に入ろうとしなかったばかりか、入ろうとしている民衆の邪魔をしていました。
ですから、「ラザロと金持ち」は、神の国に入ろうとしないパリサイ人の将来を預言的に語ったものであると言えます。イエス様がダビデ契約を成就する「ダビデの子として来られたメシア」であり、やがて「天の雲に乗って来られる神の子」であることを否定する人が、その方の王国(神の国)に迎えられることはないのです。
イエス様は、この一連のたとえ話を通して、ご自分が王として再臨されて神の国が始まった時、ラザロのようにアブラハムと共に神の国の食卓に着く人々がいる一方で、富に仕え、神の御心を蔑ろにした金持ちのように、外の暗闇に出されてしまう人々がいると教え、パリサイ人たちに警告されたのでした。
悔い改めの実を結んだザアカイ
ルカ19章に、取税人ザアカイの悔い改めが記録されています。
ザアカイは、不正な方法でため込んだ財産(ローマに納める税金を集める時、法外な手数料を取っていた)の2分1を貧しい人に施し、だまし取ったものは4倍にして返すと宣言し、イエス様からこう言われました。
「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。(ルカ19:9~10)」
罪人のザアカイが悔い改めたので、イエス様は大変喜ばれました。ザアカイは、アブラハムの子としてアブラハムのふところで神の国の食卓に着くことができるのです。
6.「ラザロと金持ち」を神の国の視点から読み解く
父なる神の御心は、罪人が悔い改め、永遠のいのちを得て神の国に入り、神と共に永遠に生きることです。イエス様はそのために神の国の福音を宣教されました。
12章から16章までの8つのたとえ話に共通しているのは、イエス様が再臨されて神の国が始まる時に、復活して神の国を相続するための教えであることです。そして19章のザアカイの物語は、イエス様の教えに応答し、悔い改めた人の実例です。
そこで、その間にある「ラザロと金持ち」のたとえ話を、これらのイエス様の教えと調和し、整合性が取れるように解釈してみます。
この金持ちの心は地上の宝にあり、神の国を求めていませんでした。この人物は、有り余る富を自分の欲のためだけに使い、家の前で施しを求めていたラザロを顧みず、「不正の富で永遠の住まいのために友を作る」ことに失敗しました。そして、貧しくてお返しのできないラザロを食事に招いてあげなかったので、義人の復活の時に神の国の食卓に招かれてお返しを受けることがありませんでした。
彼は、イエス様が帰って来られた時に厳しく罰せられ、不忠実な者と同じ目にあわされることになりました。狭い門から入ろうとしなかったので、アブラハムと共に神の国の食卓に着くことができず、外に投げ出されて泣いて歯ぎしりしたのです。金持ちのいのちは財産にはありませんでした。
これが、イエス様がたとえ話を通してパリサイ人に警告しておられたことです。
コメント