ヨハネ10:27~28
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
イエス様と人間の関係は、羊飼いと羊の関係にたとえられています。良い牧者はどのように羊を世話し、導くのでしょうか。主をもっと親しく知り、主と共に歩む幸いな人生について学びましょう。
1.目の見えない偽指導者と、見えるようになった盲人
初めに、イエス様が教えをされるきっかけとなった出来事を見ましょう。イエス様がご自分を良い牧者であると語られた背景には、盲目で生まれた男性の目を癒されたという出来事がありました。主が安息日に唾で泥を作って盲人の目に塗り、シロアムの池で洗うように命じ、盲人がその通りにすると、見えるようになったという出来事です。
この奇跡を見て、パリサイ人の間で「イエスは罪人か、キリストか」という議論が起こりました。「安息日を守らないからイエスは神から出ていない」という者と、「罪人に、こんなしるし(キリストの証拠としての奇跡)はできない」という者に分裂したのです。
パリサイ人の口伝律法では、「安息日に医者が病人を癒やすことは律法違反」でした。一方「盲目に生まれた人を癒すことはキリストの証拠の一つ」と教えられていたのです。
この癒やされた人はパリサイ人たちに、「イエスは預言者だと思う」と言い、2度目に尋問された時にはこう答えました。
ヨハネ9:31~33
「私たちは知っています。神は、罪人たちの言うことはお聞きになりませんが、神を敬い、神のみこころを行う者がいれば、その人の言うことはお聞きくださいます。盲目で生まれた者の目を開けた人がいるなどと、昔から聞いたことがありません。あの方が神から出ておられるのでなかったら、何もできなかったはずです。」
ユダヤ人(ユダヤ地方の宗教指導者のこと)たちは、「イエスはキリストである」と告白する者を会堂から追放すると決めていました。パリサイ人は彼の答えに怒り、「お前は全く罪の中に生まれていながら、私たちを教えるのか」とののしり、彼を追い出しました。
会堂から追放するということは、ユダヤ教の信仰共同体から追い出し、救い主が来ても神の国に入れないと宣言するようなものです。宗教指導者たちは、自分たちに民衆の永遠を決める権威があるかのように振舞っていました。
イエス様はこの元盲人を探し出し、「あなたは人の子を信じますか」「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのがその人です」と、ご自分がその救い主であると証言されたのです。癒やされた人は、「主よ、信じます」と言い、イエス様を礼拝しました。
主は続けてこう言われました。
ヨハネ9:39
「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
そしてパリサイ人にはこう言われました。
ヨハネ9:41
「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、今、『私たちは見える』と言っているのですから、あなたがたの罪は残ります。」
盲目で生まれ、主に癒やされて見えるようになった人は、しるしとしての癒しを体験して霊的な目が開かれ、イエス様をキリストと信じました。一方、パリサイ人たちはしるしを実際に目撃しても、霊的な目を閉じたままで、その真理を受け入れませんでした。
イエス様をキリストと信じる者の罪は取り除かれ、キリストの支配する神の国を相続することができます。信じない者は罪人のまま残され、神の国から締め出されます。この元盲人を「罪人」と罵倒したパリサイ人は、自分たちこそ「罪人」であることを理解していませんでした。
この出来事をきっかけに、イエス様は良い牧者についての教えを始められました。
2.「羊の門」イエス様と「盗人」パリサイ人
イエス様は、ご自分が「いのちを与える存在」であり、偽の宗教指導者たちは「羊のいのちを奪う者」であることを示されました。
パリサイ人はイスラエルの民衆にとっての霊的指導者です。律法を学び、民衆に御言葉(律法、神の教え、戒め)を教えて養い、神様に従うように導く宗教的リーダーで、本来なら牧者の立場にある人々です。
ところが彼らは自分たちの人間的な知恵と行いを誇り、律法の本質や律法の本来の目的を見失っていました。律法を守るためにさらに詳細な規則を作り出し、律法ではなく、それらの規則や先祖達の言い伝えを民衆に守らせることに熱中し、民衆に荷いきれない重荷を負わせていたのです。
彼らは民衆を口伝律法で縛り、神と神の恵みを見失わせ、神の民としての喜びを奪っていました。そして「律法を守り、神に仕える自分たちこそ義人である」と自己義を主張し、民衆を見下していたのです。このパリサイ人に、イエス様は言われました。
ヨハネ10:7~10
「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」
わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です
イエス様は、宗教的優越感に浸り、高ぶっていたパリサイ人たちを「盗人・強盗」と表現し、彼らはただ、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけだと言われました。だからイスラエルの民衆は、彼らの言うことを聞かないのだと。彼らは実際、救い主を待ち望む民衆に、イエス様を信じさせまいと画策していました。自分たちの宗教的権威を振りかざし、民衆を自分の支配下に留め、主の羊を奪おうとしていたのです。
わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです
イエス様は、ご自分が「羊たちの門」であると宣言されました。イエス様という門を通って入るなら救われ、豊かないのちを得ることができます。イエス様だけが、父なる神のもとに立ち返るための唯一の「道・真理・いのち」なのです。
3.罪人と見なされた羊飼い
イエス様がご自分を羊飼いにたとえられたことは、当時の常識からは考えられないことでした。
ヨハネ10:11~13
わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。
イエス様が自分を「良い牧者」と宣言されたことは、パリサイ人にとっては驚きでした。当時、羊飼いの社会的地位は極めて低く、それどころか彼らは罪人と見なされていたからです。
羊飼いは羊を世話するために町から離れ、何日も野宿します。律法によると、安息日は仕事を休み、日常の思い煩いから離れ、全ての必要を満たしてくださる創造主の御前に出て礼拝する日とされていますが、羊飼いたちは会堂に集うことができません。
また成人男性は、過ぎ越しの祭り、五旬節の祭り、仮庵の祭りにエルサレム神殿に上り、神を礼拝することが定められていますが、羊飼いは何日も羊を置き去りにしたまま例祭に参加することはできません。彼らは律法を守れないので、罪人とみなされ、軽蔑されていました。
そして羊飼いたちは無学で貧しく、動物を飼う仕事は汚いので、卑しい職業として宗教家たちに嫌われていました。「神は羊飼いに救いの契約を与えていない。羊飼いは救い主が来ても救われない」と言われ、見捨てられたような存在でした。
イエス様はご自分を、罪人と見下げられていた羊飼いにたとえられたのです。
神様は、羊飼いを救いの望みのない無価値な存在とは見ておられません。
救い主の誕生を最初に知らされたのは、野宿をしていた羊飼いたちでした。
ルカ2:11
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」
突然現れた御使いは、羊飼いたちに「罪人と蔑まれているあなたがたを救うために、キリストが生まれた」と伝えました。「救いから除外されている」と言われていた羊飼いのところに、真っ先に福音が届けられたのです。
救い主は、蔑まれ、見下された者、小さい者、弱い者、貧しい者、罪に苦しむ者の所に来て下さいます。誰も滅びることのないようにと。そして、主の尊い血によって救うことができないほど汚れた人も、罪深い人もいません。
パリサイ人たちは神様から羊の管理を任された雇い人です。けれども彼らは自分の利益しか考えない悪い雇い人でした。彼らの関心事は羊の健康や安全や養育ではなく、自分たちの名誉や金儲けでした。
神の御子であるイエス様は、雇い人ではなく、羊の本当の所有者、飼い主です。イエス様は、ご自分を罪人とされた羊飼いと同一視されました。そして実際、主ご自身が罪人とされ、神の子羊となって、全ての罪人を救うために十字架で身代わりに死なれたのです。
イエス様の「わたしは良い牧者である」という宣言は、パリサイ人の「義人」「罪人」「救い主」に対する概念を根本的に覆します。主は、蔑まれている人や見捨てられたような人を愛し、罪人だからこそ救ってくださるのです。救い主は、正しい(と自己義認している)人を招くためではなく、罪人(と自覚して悲しんでいる人)を招いて悔い改めさせるために来られたのです(ルカ5:32、マタイ9:13、マルコ2:17)。
4.羊飼いと羊
主は、私たち人間は羊のような存在であり、イエス様は羊飼いであると言われました。
羊飼いは過酷な仕事です。年中無休で羊の世話をし、昼も夜も羊と共に野で暮らし、暑さ寒さに耐え、野獣から羊を守らなければなりません。
羊は弱く、ケアが必要な動物です。羊飼いはどのように羊たちを世話するのでしょうか?
① 羊飼いは羊を知り、羊は羊飼いを知っている
羊飼いは自分の羊に名前つけ、1匹1匹の特徴を知って区別しています。
羊も自分の羊飼いを知っています。羊は耳が良く、飼い主の声を聞き分け、他の羊飼いの声には反応しません。羊の視野は270~320度もあり、飼い主の居場所を瞬時に把握します。
羊飼いは毎朝、自分の羊を呼んで囲い場(羊を夜、休ませる場所)から出し、先頭に立って歩き始めます。すると羊は一斉について行き、群れを作って移動します。生まれたての小羊は羊飼いが懐に抱いて運びます。
ヨハネ10:3~5、7
羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」・・・わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。ヨハネ10:14
わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。
羊飼いイエス様は、私達を個人的にご存じで、1人1人の名前を呼んで導き出して下さいました。
私たちが主を個人的に知り、主に従うためには、聖書を読むことです。御言葉を読めば読むほど、主がどのような方かを知り、主の御心を知ることができます。そして祈りによって主に語り掛け、祈りの中でも主の御声を聞くことができます。
② 牧者は羊を草地や水飲み場に導く
羊飼いは毎日、十分な牧草を求めて羊を移動させ、水飲み場に導きます。イスラエルは乾燥した岩地や砂地が多く、草はまばらで、決して緑の牧場と言えるような場所ではありません。また、イスラエルの気候は雨季と乾季がはっきりしていて、乾季には何カ月も雨が降らず、川の水が枯れるので、井戸から水を汲んで飲ませなければなりません。羊たちは導かれなければ、自力で食料や水を探し出すことができません。
放牧場に来ると羊飼いは立ち止まり、羊の方に向き直ります。すると羊も止まって草を食べ始めます。羊と羊飼いの間には単純な信頼関係があります。羊は飼い主に従順で、かわいい存在です。
私たちが主の御声と御心に聞き従い、神の国と神の義を第一に求める時、必要は満たされます。
詩編23:1~3
主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに私を義の道に導かれます。
イエス様は私たちの日常の必要を満たしてくださるだけでなく、永遠のいのちに至る食物を与え、いのちの水を飲ませて下さいます。
ヨハネ7:37~38
・・・「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」
③ 「羊の囲い場」と「羊の門」
羊はストレスに弱い動物で、夜は安心して休める場所が必要です。羊と羊飼いが野宿する場所は2種類あります。雨の日や天候の悪い時には「自然の洞窟」に羊を避難させますが、晴れている時は野にある「囲い場」で夜空を眺めながらの野宿です。
囲い場は、石を積み上げて壁(石垣)を巡らした、天井のない部屋です。羊1匹が通れる位の狭い小さい入口(門)があります。羊飼いは、1匹ずつ数えながら羊を囲い場に入れます。付近で放牧中の複数の群れが一緒に入って夜を過ごします。
そして羊飼いたちが入口で火を焚いて座り、自分たちの身体を張って門となり、羊泥棒や羊を襲う猛獣を見張ります(門番、夜番)。もし敵が来たら、羊飼いたちは身を挺して戦い、羊を守ります。
朝になると、それぞれの羊飼いが自分の羊を呼んで連れ出し、草地に導きます。
ヨハネ10:7、9
・・・まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。・・・わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。
④ 迷った羊を探し出す
羊は群れで生活しますが、敵に襲われるとパニックに陥って走り出します。群れから離れると、帰巣本能がないので迷子になり、自分で帰って来ることができません。100匹の羊を持つ人のたとえ話(ルカ15:4~6)にあるように、1匹でも羊がいなくなれば、羊飼いは見つけるまで探し回ります。
いなくなった羊はケガをしたり、おなかをすかせて動けなくなったりしていることもあるので、羊飼いは羊を自分の肩に背負って連れ帰ります。
次の御言葉はイスラエル民族に語られていますが、私たちクリスチャンにも当てはまります。
イザヤ63:8~9
主は言われた。「まことに、彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ」と。こうして主は彼らの救い主になられた。 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。イザヤ46:3~4
・・・胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
私たちの牧者であるイエス様は、いつも1人1人に気を配り、助け、世話し、守ってくださいます。たとえ私たちが主から離れ、迷ってしまっていても、主が私たちを探し、見つけ出して下さるのです。
⑤ 命を懸けて敵から守る
羊は戦うための爪や牙を持たないので、野獣に襲われても、自分で自分の身を守ることができません。良い羊飼いは自分の身を挺して羊を守ります。
詩編23:4
たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
牧者は羊を守るために3種類の武器を使います。
・「むち」は、羊に危害を加える蛇やサソリを打ち殺すためのものです。羊を打ちたたくためではありません。
・「杖」は、棍棒にくぎなどを打ち込んだもので、襲って来る熊、獅子、狼などを殴りつけるために使います。ダビデは獅子や熊の口から羊を取り戻しました。
・「石投げ」は、離れたところにいる猛獣を倒すために使います。ダビデの一撃で巨人ゴリアテが倒れました。
羊飼いは、羊のために戦って命を失うこともあるのです。
私たちはイエス様と出会う前は、罪に支配され、死におびえ、敵(盗み、殺し、滅ぼす悪魔)の攻撃や、罪の結果の呪い(病、貧困、人間関係の諸問題など)に苦しんでいました。イエス様は私たちを救うために、ご自分のいのちを投げ出してくださいました。私たちの身代わりに死なれ、私たちの罪を取り除き、神の怒りと永遠の滅びから救い出して下さったのです。
イエス様だけが本当の羊飼いです。
ヨハネ10:10~11
・・・わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。ヨハネ10:28
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。ヨハネ8:31~32、51
・・・「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」・・・だれでもわたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。
5.「ソロモン作戦」:離散した羊の群れが連れ戻される
イエス様は今でも、ご自分の民を守り、養い、助け出してくださる真実な羊飼いです。
1991年のこと、エチオピアに離散しているユダヤ人14,200人を25時間でイスラエルに帰還させるという奇跡の救出、「ソロモン作戦」が実行されました。
エチオピア系ユダヤ人は、ソロモン王とシバの女王の間に生まれた息子の子孫と言われ、「ファラシャ」と呼ばれています。
使徒の働き8章に、ピリポがエチオピア女王の宦官に洗礼を授けたという話があります。エルサレムで礼拝し、自国に帰る途中、馬車の中でイザヤ書を読んでいた宦官に、ピリポがイエス様の福音を伝え、宦官はイエス様を救い主と信じてバプテスマを受け、喜びながら帰って行ったという出来事です。当時エチオピアには、ユダヤ教を守って生活するファラシャが大勢いました。
AD70年にローマ軍によってエルサレム神殿が破壊され、イスラエルは滅亡し、中東全体で1000万人のユダヤ人が殺されました。その悲劇を知ったファラシャは、自分たちはユダヤ人最後の生き残りであると思いました。彼らはエチオピア北部の山奥に隠れ住み、それから1900年以上、電気・水道・ガスもない僻地で、独自のユダヤ教を守り続けました。
1948年にイスラエルが再建国され、その後、世界に離散しているユダヤ人を探し出す「アミシャブ」という組織の調査で、エチオピアのファラシャがユダヤ人であると認定されました。
1990年、ファラシャたちが皆、一斉に、「シオンへ帰れ」と言う天の声を聞き、行動を起こしました。彼らは文明から隔離され、電話も新聞もテレビもない山奥に分散して暮らしており、互いに連絡を取り合うことはできません。誘い合わせたわけではなく、それぞれが神の御声に応答したのです。
彼らはシオンがどこにあるかもわからないのに、イスラエルに帰還する時が来たと信仰によって受け止め、荷物をまとめ、次々と山を下りてアディスアベバ空港に集まって来ました。お金もパスポートも持たない移民希望者22,000人が、イスラエル大使館に押し寄せたのです。
当時、エチオピア独裁主義政権はイスラム教の反政府勢力と内戦中にあり、エチオピア政府とイスラエル政府のファラシャ出国交渉は難航しました。14,200人のファラシャは、空港付近にテントを張って1年間待機しなければなりませんでした。
エチオピア政権が崩壊する直前、アメリカのユダヤ人関係機関が3500万ドルの出国金(身代金)を集めて提供し、制限時間内に全員を脱出させることができました。
ファラシャの移送は1991年5月24日午前10時に始まり、米軍機とイスラエル空軍機、民間機の合わせて35機が延べ41回飛行し、5月25日午前11時に終了、25時間で全員を無事にイスラエルに帰還させることができました。そして飛行中に11人の新しい命が誕生しました。
エチオピア系ユダヤ人たちは、初めて見た巨大な空飛ぶ乗り物にも恐れることはありませんでした。彼らはその理由を尋ねられ、御言葉を引用しました。
出エジプト19:4
「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。」
飛行機はまさに、巨大な鷲の翼でした。彼らは御言葉に絶対の信頼を置き、エルサレム帰還が神による神聖な救出であると確信し、顔は敬意と畏怖に満ちていたそうです。
羊飼いイエス様は、エチオピアがイスラム政権に倒され、ユダヤ人迫害が始まる前に、失われていた22,000人の離散ユダヤ人の群れを呼び集め、イスラエルに連れ戻されたのです。
主はイスラエル政府を動かしてエチオピア政府と出国交渉させ、必要な全ての準備、35機の飛行機とパイロット、移動のためのバスと運転手、医師、看護師、教師、移民後の住居を備えさせました。
またアメリカ在住のユダヤ人たちに働きかけて、3500万ドルの出国料、14,200人を1年間養うための食料を備えさせ、ビザの取得や出国手続きのためにあらゆる必要な助け人を送りました。子供たちのためには学校が開かれ、移民後の生活に備えてイスラエルの習慣やヘブライ語が指導されました。
当時エチオピアのイスラエル大使であったアシェル・ナイム大使は、「歴史を通じてユダヤ人の贖いは、天からの至上命令であった」と述懐しています。
イエス様は、離散していたエチオピアのユダヤ人1人1人の名前を呼んで連れ出し、イスラエルとアメリカのご自分の民を動かして、22,000人の民族大移動という大プロジェクトを成功させ、彼らを安息の場所、父祖の地に導き入れて下さったのです。
6.私たちの羊飼いの約束
もう一度、イエス様の約束の言葉を読みます。
ヨハネ10:9~11、27~28
わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。わたしは良い牧者です。良い牧者は羊たちのためにいのちを捨てます。・・・わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。
主は私たちの良き羊飼い、イエス様は真の牧者です。
・主は私達を個人的にご存じで、1人1人の名前を呼んでこの世の支配から連れ出して下さいました。飼い主イエス様の言葉は聖書に記されています。御言葉を読んでイエス様を個人的に知り、信頼して主の御声に聞き従っていきましょう。そうすれば、主が私たちの必要を満たし、敵の策略と攻撃から守り、平安で満たしてくださいます。御言葉に従うなら迷子になることはありません。主は私達を永遠の命に導いてくださるのです。
・思い通りにならないこと、長い間忍耐し、祈ってもなかなか解決されない問題があるかもしれませんが、神様の時が来ると、御心を教え、良きご計画に導いて下さいます。たとえすぐに祈りが答えられないとしても、神様が動かれるなら、神の時に神の方法で最善がなされます。
・やがてイエス様が再臨される時、主を信じる者は死から復活し、栄光の身体に変えられて義と平和の御国に迎えられ、約束された永遠の祝福を受け取ることができます。この希望は失望に終わることはありません。
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